2008年05月30日

IILとハリマオ

武官室の密談

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はビルマ軍司令部前で馬上の筆者
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引用開始
 バンコック日本武官室の二階の一室で田村大佐と門松中佐が対座して密談が続いていた。・・・・初めて体験するこのバンコックの熱気も忘れ、田村大佐の報告に全神経を集中し、その要旨をメモしながら時々反問する中佐の面には明らかに希望が輝き、武官に対する感謝の念が動いていた。一体中佐は田村武官からいかなる方策を拾いつつあるのであろうか。中佐は三つの新しい工作の端緒を発見し得たのである。・・・・
 その一つは、先に紹介したIILであった。その二つは「マレイのハリマオ」と称するものであった。それはマレイの東岸トレンガンに居住していた谷豊なるものの異名である。ハリマオというのはマレイ語「虎」という意味であった。彼の一家は明治の末からトレンガンに居住し、理髪業で糊口をしのいでいたが、日支事変の当初、この地に華僑の排日運動が激しかったころ、その襲撃を受けて妹静子(六歳)が拉致されて無惨に殺された。彼はそのころから素行が急変し、マレイ人の無頼の徒に加わって匪賊行動にはしるようになった。彼は大胆、変幻自在の巧妙な行動と、マレイ人の子分に対する義侠的態度によって彼らの頭目となり、三千人に上る部下をもっている。目下英官憲に追われて南泰に潜伏しているが、ここでも地方泰人の信望を集めている。・・・

 マレイに対する諜報に価値があるだけでなく、有事の日にはマレイ人に対する宣伝、英軍に対する謀略に大きな役割を果し得るだろうというのであった。その三つは先に門松中佐が東京から南泰に派遣していた田代重遠氏(佐賀県出身、実名は岩田氏、中学卒業と共に図南の志に燃えて、南方に進出し、シンガポールに長年居住し華僑事情に明るく、また知己が多いという話であった)を通じ、シンガポールの華僑特に埠頭苦力を反英運動に決起し得る見込みがあるということであった。スマトラ・ジャワに対する有効な手がかりは全くなかった。中佐は田村大佐に、この工作のため速急に適当な将校と必要な経費を手配する約束をして東京に帰ってきた。・・・・
 九月十日(1941年)の午後、門松中佐は私を自分の席に呼び寄せていつになく改まった重い口調で、思いもよらない事を宣告した。いわく「貴官には近日バンコックに行ってもらわねばならぬ。その仕事は田村大佐を補佐してマレイ方面に対する工作の準備に当ってもらうことになる。もしこの情勢が悪化して日英戦争が始まるようなことになれば、貴官は近く編成される南方総軍参謀に補佐せられたうえ、もっぱらマレイ方面の工作を担任することとなる予定である。数名の将校をつける予定だ」と。そして彼がバンコックで田村大佐から得た情報の内容をかいつまんで説明してくれた。

 数名の将校には中野学校出身の青年将校土持大尉、山口・中宮両中尉、米村・瀬川両少尉と滝村軍曹とが数えられた。そのほかに只今東京外語学校印度語部に在学中の石川義吉なる青年を採用すべく、学校長と当人に交渉中である旨が付言された。いずれも思想堅固で純情、そして任務に忠実な青年将校で、人物としては申分のない人だ。しかし私と同様この種の任務に識見も経験も乏しい人であり、語学もできない者ばかりである。勿論現地にも行ったことのない者ばかりであった。・・・・
 世田ヶ谷、松陰神社のかたわらに、ささやかながら平和な家庭が思い余った私をねんごろに迎えてくれた。私は和服にくつろいで、五才になる長女脩子を伴って松陰神社の森を求めた。・・・・・
 先哲の墓前にたたずんで、私は、今日本が当面し驀進しつつある空前の難局をあたかも報告するかのように自問した。私は私に負荷されんとしつつある困難な任務を報告したとき、私がこんな任務を受けて出て行かなければならないほどに事態が重大なる局面に突き進み、祖国の危機が迫りつつあることを今更のようにかみしめて味わった。・・・・
 九月十八日、私と五名の将校は参謀総長杉山大将の部屋に呼び出された。私達は軍装に威儀を正してうやうやしく総長の前に列立した。いよいよ正式に命令をいただいた。タイプされた訓令が、総長から私の手に手交された。私は興奮を抑え、心を静めて訓令を一読した。
「貴官らはバンコックに出張し、泰国駐在武官田村大佐のもとにおいて、主としてマレイ方面の工作特に印度独立連盟及びマレイ人・支那人らの反英団体との連絡ならびにその運動の支援に関し田村大佐を補佐すべし」というような要旨がうたわれてあった。そして若い将校は総長室から退場を命ぜられ、私だけが残った。

 かつて1920年頃、若い大尉のころ印度に駐在し、またマレイに派遣されたことのある大将は、この訓令の他に次のようなことを厳かにかつねんごろに付言した。
「貴官の任務は、差当り日英戦争が勃発するようなことになった場合、日本軍の作戦を容易にし、かつ日本軍とマレイ住民との親善協力を促進する準備に当るのであるが、大東亜共栄圏の建設という見地に立って、印度全国を注視し、将来の日印関係を考慮に入れて仕事をされたい。なお英印軍内の印度兵にも色々の種族があって、英軍当局は印度人が反英策動ができないように、これらの種族をたがいに牽制するよう巧妙に配合した編制と指導とを行っていることに留意されたい。しっかりやってくれ。大いに期待している」と。
 私は総長の意図は「大東亜新秩序の大理念を実現するために、印度の独立と日印提携の開拓を用意しつつ、まずマレイ方面の工作に当れ」という意向と承った。
 年少の一少佐の身分で、このような雄大な使命を受けて行くことがいかにも軍人として、また日本男子として冥加に尽きる光栄に感ぜられた。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物
この記事へのコメント
大変ご無沙汰しております。
チェックはしていても、じっくり拝読してコメントさせていただく余裕までありませんでした。
ちょうど今読んでいる鈴木孝夫氏の「『日本人はなぜ日本を愛せないのか』第6章 日本人の自信回復のために」にこの辺に関する記述が有ります。「開戦の詔勅」に東亜諸民族の解放が謳われなかったのは惜しかったですね。早くからこの理念はあったのですから・・・。
Posted by おばりん at 2008年05月30日 18:46
おばりん様
お久しぶりです。
この本は相当のプレミアが付いていて、高価でしたが、是非読みたいものでした。
当の本人の著作ですからね。
抜粋するよりも、どこを省くかに苦労します。
Posted by 小楠 at 2008年05月31日 14:47
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