ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真は著者近影(左)とF機関当時の著者(右)

引用開始
1940年12月、筑波おろしの烈しいある日の朝、東京三宅坂にある日本大本営陸軍部第八課の門松中佐の机上に異様な一通の親展電報が配布されていた。発信者は広東にある日本軍(第二十一軍・・・波集団)参謀長であった。あて名は参謀次長であった。その内容は香港から脱出してきた三名の印度人が、広東の日本軍司令部にたどり着いて、次のような申出をしたというのである。それは「自分達は反英策動のかどで香港の刑務所に抑留されていたが脱走してきた者である。その目的は三名がそれぞれ印度本国、ベルリンおよびマレイに潜行し、同志と連絡して反英独立運動を遂行したい。それがために、日本軍保護のもとに、なし得ればバンコックに、やむを得なければ仏印に送ってもらいたい。自分達はその後は陸路歩行をもって目的地に行く」というのである。
なお、この電報の末尾には印度人の氏名が記載されてはいなかったが、「シーク族」で、熱烈な反英独立運動の志士であること確実なる旨が付記されてあった。・・・・
返電の内容は「広東の日本軍において素性を更に確かめたうえ、できるだけの好意をもってその希望をいれてやるよう」に指令されてあった。この電報と入れかわりに、更に広東の日本軍から「件の印度人三名を、神戸に向かう汽船に便乗し出発させたから、参謀本部の方でしかるべく処置されたき」旨の電報が入った。
そこで門松中佐はこの三名を安全に、バンコックに密航させる処置を、藤原少佐(当時大尉)―私に命じた。小岩井大尉がその補佐を命ぜられた。私はこの三名の印度人につき、日本大本営は何ら特別の要求、もしくは期待をしないということを確かめた上、バンコック行きの船便を探索した。また、バンコックの田村武官に、バンコック港到着時、無事に密かに上陸できるように手配方を打電依頼した。
苦心の末、丁度バンコックに米を積みに行く汽船が発見された。その船名は三井山丸という、三井物産所属の船であった。・・・
暗夜三名の印度人は艀舟で汽船から汽船へと移された。
かくして、この三名の印度人は、初めて見る日本の土も踏まず、また六甲の山容も仰ぎ見ることなく、この汽船の倉庫に潜伏してバンコックに向かった。
小岩井大尉の報告によると、三名の印度人は,船倉の窮屈な蟄伏にも一言も小言を漏らさないのみか、日本軍の一点の野心もない暖かい援助に涙を流して感謝の意を表明した。・・・・われわれはただ雄々しくも祖国の独立のために身を捧げ、そしていまその目的と行動のために、窮境にあるこの三人の印度人に、無事に志望を達成させてやりたいという、国境を越えた友情にかられ、その仕事が何か尊いことのように思われ、感激をもって任務に服した。・・・・
われわれは遂に田村武官から「三人の印度人が無事バンコックに到着した」旨の電報を受け取ることができた。・・・・田村武官は疲労しきった彼らに水浴を勧め、冷たい飲物や新鮮な果物や久し振りの印度料理を与え,取敢えず休息させた。翌日の夜、田村武官は初めて彼らの志望を聴取した。その際、バンコックにおいて取敢えず身を寄せる知己の有無を尋ねたところ、その他意なき友情に安心したものか、彼らの一人は「バンコックにアマールシンなる老同志がいる。その同志は当地に本部を有するIILの指導者である。その下に書記長としてプリタムシンという若い印度人がいてアマールシンを補佐している。IILというのは、印度の解放と独立をめざすシーク族の秘密結社であって、香港・上海・東京・サンフランシスコ・ベルリン等に広く同志が散在している」旨を素直に語り明かした。彼らはその夜、田村武官の好意を謝し、将来の奮闘を誓って、同志のもとに身を寄すべく、武官の宿舎からルンビニン公園の闇の中へ消えて行った。それから数日ののち武官の宿舎に一台のサムローが着いた。門番の印度人(シーク族)が出迎えると、中から白いターバンを巻いた黒髪長身、一見牧師風の若いシーク人が現れて辺りの人目をはばかりながら、Col. Tamura に案内を乞うた。この人こそ、IILの中心人物プリタムシン氏であった。これが実にIILと日本軍との接触の第一歩となったのである。
このようにして、その後田村大佐とアマールシン氏ならびにプリタムシン氏との密会が回を重ねて行った。・・・・IILと日本軍との友情のつながりはかくして結ばれた。・・・・
近代工業資源の大部分を外国に仰がねばならない日本は、英・米・蘭三国の経済封鎖にあって絶体絶命の立場に追い込まれつつあった。しかも、シンガポール・ジャワ・豪州・マニラ・ニュージーランド・ハワイを結ぶ英・米・蘭諸国の軍備の強化と日に増す提携の強化は、日本を圧殺する鉄環のような重苦しい感作を与えた。・・・・
日本大本営は、万一平和的妥結の方途が絶望となった場合、九死に一生を求める武力の対決について、あわただしい研究と準備を進めざるを得なくなった。・・・・今やかつて用意したことのない赤道両域にわたって、英米の二大強国を相手とし、大渡洋作戦を敢行せざるを得ない羽目に立ち至った。三宅坂の参謀本部は異様な緊張を帯びてきた。
引用終わり