2006年10月16日

フランス歴史教科書2

同じくフランスの教科書で、1961(昭和三十六)年発行の教科書を引用します。明治維新から第一次大戦頃までの通史となっています。ここには「明治天皇とその家族」の珍しい写真や明治天皇の大きな写真、そして連合艦隊の写真も載せています。
 この通史は是非日本の中学生あたりに読んで見て欲しいと思います。

引用開始
『現代史――1848〜1914』
※日本の変革 明治時代
 1869年、東京に遷都したムツヒト天皇は、数年にわたって、日本を改革することとなる。

【政治】
 帝国憲法が発布された1889年までは、天皇が唯一の主人であった。この時まで、天皇が憲法そのものであった。しかし憲法が制定されてから、天皇は各種大臣の輔弼と、貴族院ならびに多額納税者による選挙によって選出された衆議院の協賛をもって統治した。しかし、現実は、各種大臣が天皇に対してだけ責任を負って政治を行い、予算は自動的に「成立」可能であった。
 天皇は権力の根元を保持していたが、国家の長老(憲法によって何の明記もされていない制度・元老)の助言が天皇の帷幄(いあく)にあって主要な役割を果たした。結局、日本を「列強と全く平等の立場に置く」為に制定された憲法は、現実的には単なる衝立にすぎなかった。

【社会】
 日本は激動した。天皇は封建体制を一掃した。法の前での平等が宣言され、幕藩体制は廃止され、農民は自らの土地の所有者となり、大名は城を明け渡し、造幣権を失った。日本は今や、郡県の行政区画に分割された。士族の激しい反乱が鎮圧された。1884年にはヨーロッパから輸入された世襲貴族制(公・候・伯)が創設された。

【経済】
 その飛躍は驚異的なものがあった。それは特に、たびかさなる英・米からの借款にささえられて行われた。1900年には、鉄道は七千キロメートルにのび、1906年には、日本は負債を返済した。商船隊は当初オランダ人技師を師として、そのおかげで発展していった。電信・電話局が政府のてこ入れで、急速に発達をとげていった。

 産業革命は通信手段の激変をもたらした。日本政府は官営工場を創設し、民間企業に補助金を与え、外国人技師を招聘した。炭鉱や鉱山を開発し、1891年からは、京都の近郊にある琵琶湖の水力発電を利用した。一番に近代化された繊維工業は各地に工場の林立をみることになった。

 1898年になると、日本は綿の国内需要を満たすようになり、その輸出国となった。その当時まで、未加工のままで売られていた絹がフランスの技術によって製糸工場で製品として生産されるようになった。製鉄業は資源不足という不利益によって発展を妨害されていたけれども、政府は、1892年に、北九州の地に日本帝国製鉄所を設立し、そして海軍造船所を各地に創立していった。正しい意味での工業地帯が建設されていった。

【軍事】
 1872年、海軍の建設が決定され、1873年には兵役の義務が法制化された。しかし、ごく少数の兵が召集されたにすぎなかった。その後、陸軍は着実に兵員を増やしつづけて、1873年に三万一千名であったものが、1911年には、十二万一千名となった。
 特に、海軍は政府の庇護の対象となっていた。1869年、日本政府はイギリスに、若い将校からなる軍事使節団を派遣した。明日の提督東郷はその時から七年間、留学することになったのである。フランス人エミール・ベルタンは1893年、三十三隻の大型艦と二十二隻の小型艦を持っていた日本海軍の再編成をした。

※日本帝国主義
 日本は、数年にして、列強の水準に伍すことになった。ヨーロッパは、日本の努力の重要性を理解していなかった。ただイギリスだけが1894年以来、「不平等条約」の改正を受け入れていた。
 日本は数々の成功に力を得て、膨張政策に乗り出していくことになった。

【戦略的要因】
 日本は長い海岸線を持っており、海からの攻撃にもろいものがあった。そのため「攻撃による国土防衛」の戦略的基地を、大陸に占める必要があった。

【経済的要因】
 きわめて急速な出生率が農村人口の限界点を突破した。移民に適しているとは言えない日本人は、暖かい気候の国にだけ、移住が可能であった。他面、工業の発展は製品販売市場と原料獲得を不可欠のものとした。

【最後に心理的要因】
 伝統的精神、すなわち、「優秀民族感情、皇室に対する忠誠心、祖国に対する犠牲心」は教育によって助長されていった。その驚異的変化にもかかわらず、魂だけは不変であったのである。やがて日本は、次の三つの局面において、その力と壮大な野望を現していくことになるのである。

※日清戦争(1894〜1895)
 日本と中国の争地である朝鮮王国をめぐって、1894年に日清戦争が勃発した。この戦争は電撃的なものであった。すなわち、それは、十八隻の木造艦対、三十三隻の近代的軍艦。火縄銃と槍そして扇と傘をさした兵士対、犠牲の覚悟を定めたよく訓練された近代装備軍の戦いであった。
 九月以降、日本艦隊は海上権を掌握していた。1895年3月、台湾が占拠された。陸上ではすべての上陸が成功した。

 中国は講和を決定し、下関条約が調印された。(1895年4月)。朝鮮は独立した。清国は日本に台湾、澎湖島・遼東半島を割譲した。また、清国は七年間にわたって重い賠償金を払い、日本はこの支払いの担保として威海衛を保証占領し、清国に通商の特権を与えることを同意させた。

 しかし、これは唐突になされたので、列国の干渉が起こった。ロシアはトランスシベリア鉄道の終点として旅順を渇望していた。軍事的に行動できないロシアは他のヨーロッパ政府に呼びかけた。ロシアが極東にかかわりを持つことを自分にとって幸福なことだと見たドイツはこれに激励を与え、フランスは同盟に対する単なる忠義だてから、心ならずも、これを是認した。イギリスも、ローズベリー卿が「日本は将来の大国である」と宣して、これに同意を与えた。
 露・仏・独の三国は、日本に征服による権益を放棄するよう友好的助言をなした。日本の苦渋は大きかった。日本は直ちに抵抗を思ったが、それは不可能だった。ついに1895年11月、日本政府は「列国の友人の忠実なる助言を考慮する」と宣言して、清国に三億テール(両)と引き換えに遼東半島を返還し、三国に「三国の好意ある助言に対する感謝」の意を表した。

 日清戦争は日本の価値をあらわにし、清国の弱体を証明することとなり、清国は列強の餌食となっていくのである。しかし、三国の干渉、特に、ロシアの干渉は、日露戦争発生の原因の一つとなる苦い気持ちを、日本人の心に生み出すことになった。
引用書籍は「世界に生きる日本の心」からです。

どこの国も、自国のことはできるだけ良く書くのは当たり前です。
三国干渉の記述や海軍の指導などにそれが見られますね。
それでも、この時代の日本を忠実に表している点では、日本の教科書とは大違いなのではないでしょうか。

posted by 小楠 at 07:48| Comment(4) | TrackBack(0) | 教科書に見る日本
この記事へのコメント
明治維新後、日本が進んだ日清・日露戦争ですが、当時の日本の姿を欧米の教科書が紹介している陰に、大和魂と言うか、武士道のもつ精神の素晴らしさを共通して感じていたと思います。
Posted by カピタン at 2006年10月16日 10:54
フランスが幕府側に肩入れしていたことなども書かれていれば面白いのですが、そこはやはり自国の教科書ですか。
三国干渉も、「心ならずも」というところが、自国で使う教科書という観点からすれば、真実なんでしょうね。
Posted by 小楠 at 2006年10月16日 15:36
日清戦争の記述は、やや不満ですが、それでも日本の教科書よりは遥かにマシですね。
Posted by おしょう at 2006年10月16日 17:40
おしょう様
他国の教科書のほうが日本の歴史を、日本の教科書より正しく記述しているところに大きな問題がありますね。
Posted by 小楠 at 2006年10月16日 21:52
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