今回は、1981(昭和五十六)年発行の英国中等教育用歴史教科書から、日本の日露戦争時の記述を見て見ましょう。
二つの新興強国――アメリカ合衆国と日本の部分で、米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)のことが書かれていますが、例の「メイン号爆破」を当時の新聞は、「キューバ沖で、『極悪非道の秘密兵器』を使ったスペイン人によって爆破された」と報じていますが、それを証明する証拠は何もありませんでした。しかし、「この報道が米西戦争の最大の要因となったのである」とここでは記述しています。
当時スペインはアメリカとの戦争は絶対に避けたいと考えていたそうで、どうも怪しいですね。
真珠湾も先に日本が攻撃していますし・・・・というか、日本の攻撃を待っていたようですし・・・・
一般に戦争を起すのは政府と速断しがちですが、実は戦争熱に火をつけるのは新聞であり、国民の激昂であって、政府は慎重でなかなか腰を上げないものであるというのは事実でしょう。
この教科書では、日本海海戦で連合艦隊がとったT字戦法まで記述しています。世界的に有名な東郷平八郎を、海外の教科書では取り上げ、日本の教科書では、扶桑社を除いて全て無視し、朝鮮や中国の軍人や日本の首相を暗殺した者まで英雄のように紹介しています。
日本の教科書は左翼や日教組によって、完全に歪められ、子供達を朝鮮人にでもしたいような内容を押し付けられています。
心ある国民、保護者は徹底してこの悪の根源日教組を糾弾して下さい。
引用開始
『世界の近代史』(The Modern World since 1870)
※日露戦争
ロシアの極東への拡張が続いたため、この機会と口実とは、すぐに生じた。たとえば、1900年には、ロシアは満洲全域に進出した。イギリスは驚愕し、これを一つの理由として、日本との同盟に調印した。
こうして、西欧の大国との対等な協力相手としてはじめて認められた日本人にとって、この同盟は大勝利であった。
日本は、満州におけるロシアの権利のかわりに朝鮮における日本の権利を認めさせる取り決めをロシアに要求してもよいほど、自分たちは強大になったと感じたのである。しかしロシア人は、『ちっぽけなサル』と呼んでいた相手とこの問題を議論することを拒み、軍隊を派遣して朝鮮を侵略した。
日本の反応は激しかった。1904年2月9日、日本の駆逐艦が闇にまぎれて旅順港に入って行ったとき、ロシア側は何の準備も整えていず、まるで平時のように船には燈りがともっていた。また岸壁の大砲には、防護カバーがかけられたままであった。日本側は何の苦もなく、二隻の戦艦と一隻の巡洋艦とを魚雷で沈めた。四十年間の近代化の過程をへて、日本はここに強国の一つと戦いに突入したのである。
・・・・略・・・・
ロシアの軍隊は、六週間にわたって家畜用貨車に乗せられてアジアを横切ってやって来ており、彼らにとって戦争とは、家庭からの別離以外の何物でもなかった。士官の中にさえ不満をいだくものがいた。
ある士官は『この戦争の目的、原因、それにそのやり方までもが、私には実にいやに思われます』と、家に書き送った。
三ヵ月ののち、勝利は日本軍に帰した。ロシア側の最終的な惨劇は、海上で訪れた。戦争が勃発した当初、日本よりはるかに強大だったロシアの海軍は世界中に散らばっていた。そのうち一艦隊はすでに日本側に敗北していたし、黒海にいた艦隊は、ベルリン条約の取り決めで、黒海の外には出られないことになっていた。
三つ目のバルティック艦隊は、戦場から一万七千Kmも離れたところにいた。絶望的な気分になったロシア側は、このバルティック艦隊を、世界をぐるりと回って極東に送ることに決めた。その途上のさまざまな地点における石炭の供給はドイツの一会社が引受けた。
この長い航海は、その出発点で危うく終わってしまいそうになった。英仏海峡を南下中、イギリスの漁船の間を通り抜けた際、ロシア艦隊はそれを軍艦と見誤り、発砲してしまったのである。 実際の損害は軽微で、漁船一隻が沈められ、ロシアの巡洋艦一隻が、自国軍の砲弾に当たっただけであったが、日本の人気が高かったイギリスでは、怒りの声があげられた。それからしばらくの間、ロシア艦隊は、はるかに強力なイギリス艦隊の尾行を受けた。しかし、幸いにも一発の砲弾も撃たれることはなかった。
・・・略・・・
ロシア政府が二つ目の艦隊を送り、先の艦隊と一緒にすることを決定したため、マダガスカルで、最大の遅れが生じた。
全艦隊が極東の海にたどり着いたときには、すでに1905年になっており、旅順は陥落した後であった。したがって、海上での勝利以外に、この長旅を報いあるものにする方法はなかったのである。
1905年5月27日、疲れ切ったロシア艦隊は、対馬海峡で日本艦隊と遭遇した。ロシア側の動きのにぶい船は、日本の近代的な戦艦の敵にはまずなり得なかった。日本側司令官東郷提督は、砲火を一杯に開きつつ、ロシア艦隊のつくった線の頂点を横切って進むことができた。このTの横棒をかくやり方は、蒸気船の軍艦にとって最善の攻撃形態であり、勝利はたった一時間の間に、八隻のロシア戦艦が沈められた。東郷は、1798年のナイルにおけるネルソンの勝利以来最も大々的な海での勝利を勝ちとったのである。
これらの勝利が日本人におよぼした影響は、普仏戦争における勝利がドイツ人に与えた影響に似ていた。四十年間で日本は、ヨーロッパの大国を打ち破れるところまで、近代化を成し遂げた。
日本はたちまちのうちに海外領土を持つ帝国主義となり、西欧に対するアジアの人々の明らかなチャンピオンとなったのである。
日本人は偉大な未来を夢見はじめた。彼らは、これほどまでに成功をおさめた軍隊を崇拝した。日本は、危険なムードで、二十世紀に直面したといえよう。ヨーロッパが目覚めさせたのは、美女ではなく、巨人だったのである。
引用終わり。
引用書籍は「世界に生きる日本の心」からです。
イギリスの教科書では、朝鮮を侵略してきたのはロシアとなっています。日本はこれを防ぐために朝鮮の近代化と独立を切望して、朝鮮に働きかけていたのです。
しかし、事大主義の朝鮮は、日清戦争前は清国に、日清戦争後は勝利した日本についていたかと思うと、三国干渉に屈した後はロシアに寄るなど、とにかく陰でこそこそと裏切り行為をして、日本を悩ませました。
当時の世界が、日韓併合に大賛成の意を表したのもうなづけます。
2006年10月13日
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やはり、日本の「奇襲」という見解のままでしょうか?
「各員一層奮励努力セヨ」。物凄く偉い人の一言には重みを感じます。今の政治屋・官僚がのたまっても誰も耳を貸さないところに現代日本の悲劇があるんですよね。衣食足りて益々礼節を失う日本人民。禁裏様まで平民に引き摺り下ろしてしまった”ばち”が当たったんです。それにしても英国は世界事情をよく知っている国だと感心します。gookは東洋人を意味しますが英国人は鮮人/韓国人をイメッジしています。もっと知りたいです、日本の軍人さんを。またお邪魔意tします。
イギリスの教科書も、日本の教科書とはエライ違いですなぁ。
やっぱり小楠さん、現行の教科書を徹底検証して、吊るし上げる必要があるかもしれませんね。
正直言って、扶桑社でも不十分です。
>>「真珠湾攻撃」についてはどのよう に書かれていますか?
これは不思議と、さらっとしたものです。「アメリカは暗号を解読していたが、まさか真珠湾を」とか、「何の警告もなしに」とか言ったところですよ。
ケイ様
>>今の政治屋・官僚がのたまっても誰 も耳を貸さないところに
やはり昔はいた、人格者と思える人物が、全く見受けられないところに政治の弱さがありますね。昔は有料で選挙演説した人もいたとか聞きます。
おしょう様
>>現行の教科書を徹底検証して、吊る し上げる必要
昨日のおしょう様から頂いたお嬢様の教科書内容を見て、なお更強く感じました。
先ずネットでスクラム組んで、訴えたいですね。
また他の部分も、お時間の空いた時にでも教えて下さい。