2006年10月11日

米国大学教科書の日本1

解説引用
 この教科書は、ワシントン大学の歴史担当教授である、K・B・パイル氏が書いたものです。発行は1978(昭和五十三)年です。
 当時の世界情勢、動向と、それに対応しょうとする日本の考え、動きが、分かりやすく記述されていると思います。せめて日本の歴史教科書にも、このような解説があって然るべきではないでしょうか。

引用開始
『近代日本の形成』(THE MAKING OF JAPAN)
※日清戦争
 1894〜5年の日清戦争は、国際関係史において絶大な重要性を持つが、それはこの戦争が清国の弱体ぶりを余すところなく暴露し、東アジアの資源と市場の支配を求めて帝国主義列強間に激烈な競争を展開せしめることになったからである。日本は不可避的にこの渦中に捲き込まれ、自国権益の保護と拡張を最優先関心事とせざるを得なかった。

 19世紀から20世紀への転換期に、日本には欧米列強との平等を望む願望があり、東アジアの原材料と市場――日本の近隣諸国が欧米列強のいずれかの支配下に陥ったならば、日本はそこから締め出されることになる――への接近の維持という経済的動機もあったが、日本を除く東アジア諸国の政治的不安定は最も重要な要因と見られ、日本が最大の経済的利害関係を有する朝鮮と清国は、固陋で無能な政府が革命運動により土台を揺るがされており、もし両国が西欧列強の支配するところとなれば、日本の安全と経済的権益は危殆に瀕するものと考えられた。

 山縣有朋と軍首脳部は、東アジアは帝国主義列強間の激烈な競争の舞台になるであろうと結論した。支那大陸における力の真空がこの事態を招いたのである。ロシアのシベリア横断鉄道建設の決定は、山縣らの懸念の正しさを示した。新鉄道は、朝鮮または南満洲に不凍港たる終点を必要としたからである。

 日本列島の安全保障は朝鮮が第三国の支配下に陥るのを防止するのにかかっているというのが、日本外交政策の基本的原則となった。さらに参謀本部は、朝鮮の独立は、隣接する旅順港と遼東半島の支配によってのみ確保されると結論した。以上の戦略的目標を胸に秘めて、明治政府は陸海軍の増強を着実に進めた。

 朝鮮内部の陰謀と政治的混迷は、朝鮮への影響力を競い合う清国と日本の関係を緊張させ、ついに日清戦争が起こり、日本軍の勝利の結果、1895年4月17日の下関条約で、清国は澎湖諸島・台湾・遼東半島を日本に割譲し、朝鮮の独立を認めた

 日本政府が新制度を取り入れて日清戦争に臨んだことは、世界に広く知れ渡った。日本国内でも民族意識を極度に昂揚させ、その勝利は西洋文明を先進的に採用したという誇りをもたらした。・・・・・・
 だが、4月23日の三国(独仏露)干渉の結果、日本は遼東半島を清国に返還せざるを得なくなり、日本は外交的孤立の感を深め、安全保障面の不安が増大した。

 朝鮮に対するロシアの利害関係と日本の願望が対立することが明らかとなり、日本政府は軍備の拡張に着手し、山縣は友人への書簡(1895年)中に「日本は、間もなく遼東半島南部を押さえるであろうロシアを相手に、十年以内に戦争することを覚悟しなければならない」と洩らした。朝鮮半島の日本の経済的権益は急速に増大しており、日本は、食糧輸入の見返りに綿製品を輸出し、さらに野心的な鉄道建設計画を推進していた。

※日露戦争
 日本外交の――時間稼ぎのための日露暫定協定(満州と朝鮮での権益の均衡を認めた)締結以上の――最も感銘的な功績は、1902年7月30日の日英同盟の締結であった。日英同盟は、日本の外交的孤立を解消しただけでなく、西洋国家と非西洋国家の間で平等な条件で結ばれた最初の軍事条約を提供した。

 日本が一以上の国との衝突に捲き込まれた場合に英国の援助を約束していた同盟は、ロシアとの抗争に際して日本の力を強めた。
 朝鮮と満洲での両国の権益に関する再交渉が1904年2月に決裂すると、日本は戦争に踏み切り、手始めにロシア艦隊を奇襲した。日本陸軍は満洲での一連の戦争で、ロシア軍を破ったが、完全に駆逐するにはいたらなかった。ロシア軍を完全に粉砕するためには、日本が有する資源では不足だった。そこで政府も軍首脳部も戦争終結の交渉の用意をしていた。しかし、ロシア皇帝は、バルト海艦隊を派遣して、日本海軍を圧倒することにより、戦局の逆転をはかろうとした。

 東郷平八郎提督がロシア艦隊を撃滅した1905年5月の日本海海戦は、全世界の注目を集めた。
 米国大統領セオドア・ルーズベルトは、一友人に宛てた手紙の中で、東郷の勝利について、次のように述べている。
「これは、世界が目撃した最大の驚嘆事だ。かのトラファルガー沖海戦ですら、これに匹敵しうるものではない。第一報が届いたとき、私自身それを信ずることができなかった。だが、第二報、第三報が到るにおよんで、私は、まるで自分が日本人になってしまったかのように興奮を禁じ得なくなり、公務につくことができなかった。私はその日丸一日を訪問客とともに日本海海戦について語り合って過ごしてしまった。というのも、私は、この海戦が日本帝国の命運を決したと確信したからである
 その後ルーズベルトは日本側に説得されて、両交戦国間で仲介の労をとることとなった。

 この戦争には、日本の資源の未曾有の動員が必要だった。政府は軍務に成人男子人口の五分の一を動員し、百万人を第一線に送った。死傷者は十万を越え、財政的出費も巨額であった。きわめて英雄的な努力を維持するため、この戦争は国民的大事業として正当化された。日本史上、この戦争ほど国民の政治的自覚を高めたものはかつてない。
 日本政府は、戦争の結果、樺太の南半分の領有、韓国における卓越した権益の承認、遼東半島の租借権、南満洲での鉄道敷設権を獲得した。

 歴史家は通常、日露戦争を、日本に大国の地位をもたらし、かつ日本に世界の賞賛を博せしめた出来事として記述する。確かに、この戦争は、近代世界史における画期的事件である。アジア全域を通じ、抑圧されていた諸民族の指導者たちは、日本の実例からインスピレーションを受け、彼らもまた西洋の科学と工業を輸入して、白人の支配から脱却し、独自の民族性を保持し、工業化過程をみずから監督できるものと信じた。
 例えば、インドのジャワハルラル・ネールは、その自叙伝の中で、日本の勝利は、彼の人生の初期における記念すべき出来事であり、彼をアジアのために献身させた一大原因であり、彼の民族主義と「インドのために闘おう」とする決意を燃え立たせたものだと記録している。
引用終わり。
引用書籍は「世界に生きる日本の心」からです。

 もしできるなら、アメリカの教科書の両戦争の記述と、日本の教科書を比べて見て下さい。戦争に反対した人間のみを紹介し、勝利をもたらした軍人のことは多分記述されていないでしょう。
 これなら、アメリカの教科書で日本の歴史を学んだほうが、正しい日本の歴史が学べるという、全く左翼、日教組の、隠蔽、言い換え、洗脳の実態が明らかになります。
posted by 小楠 at 07:32| Comment(4) | TrackBack(0) | 教科書に見る日本
この記事へのコメント
<日清戦争>
朝鮮に勢力を広げようとした日本は、朝鮮を属国とみなす清と対立した。(中略)清が朝鮮政府の求めに応じて軍隊を送ると、日本もこれに対抗して出兵し、日清戦争が始まった。近代化に立ち遅れていた清は、十分な戦力を発揮できず、戦争は日本の勝利に終わった。
<日英同盟>
日清戦争後、日本が清に返還したリャオトン半島の一部を借り受けて、ここに強大な軍事基地を築いたロシアは、義和団事件のときに満州を占領した。韓国を勢力下におこうとしていた日本は、大きな脅威を感じ、ロシアの動きを警戒していたイギリスに接近し、日英同盟が成立した。

娘が使っている教科書からの引用です。
何としても、日本の朝鮮(韓国)侵略に結び付けたいようです。
この教科書には、良心のカケラもありません。
Posted by おしょう at 2006年10月11日 17:06
おしょう様
有難うございます。肝腎なことをスッポリ抜かしていますね。
朝鮮に出兵する場合は相互に連絡しあうはず。
韓国の独立を求めていた日本は・・・
でしょう。
日教組や反日官僚の意図がミエミエですね。
こんな教科書読んでいたら、頭も痛くなるでしょう。
Posted by 小楠 at 2006年10月11日 18:13
追記です。先ほどは、どうしても外せない用事が迫っていましたので、中途半端なコメントで終わってしまいました。ご容赦ください。

<日露開戦と戦局の推移>
ロシアは満州からの撤兵の約束を実行せず、かえって韓国にも勢力をのばそうとした。危機感を深めた日本は、ロシアの満州での権益の拡大を認めるかわりに、日本の韓国への支配権を認めさせようと交渉した。日本国内では、ロシアへの反感がいちだんと高まり、多くの新聞がすぐにロシアと開戦するように主張した。政府系の新聞や財界は慎重論を唱え、キリスト教徒の内村鑑三や社会主義者の幸徳秋水などは非戦論を唱えたが、その力は弱かった。
結局、日本政府は開戦にふみきり、1904年2月、日本軍の韓国上陸、リュイシュン攻撃により日露戦争が始まった。
戦争は韓国と満州が主な戦場となった。日本軍は、リュイシュンやシェンヤン(当時の奉天)を占領し、日本海海戦でロシア艦隊を全滅させた。ロシアでは国民生活が苦しくなり、専制政治と戦争に反対する動きが高まった。日本でも、財政は困難になり、多くの死傷者が出て、兵力や物資も不足し、国民生活は苦しくなっていった。戦局は日本に有利だったが、戦争を続けるゆとりはなくなっていった。
<ポーツマス条約>
そこで、日本政府はアメリカ大統領に仲介を求め、1905年9月、アメリカのポーツマスで日露講和条約(ポーツマス条約)が結ばれた。この条約でロシアは、日本が韓国に支配権を持つこと、南満州の鉄道の権益やリャオトン半島の租借権を日本へゆずること、樺太の南半分を日本の領土とすることなどを認めた。(後略)

入力しているだけで、怒りのため血圧が上がります(苦笑)。

そこで、小楠さん、ひとつ提案ですが、私は、今まで中世史ばかりを研究してきたため、正直言って近代史は疎いです。
小楠さんは、逆に近代史にお詳しいようですので、今、私の手元にある娘の教科書の全文をメールで送りますから、是非、小楠さんがこのアメリカの教科書と比較して捌いていただけませんか?
私がやるより、小楠さんのほうが、きっと良い記事が書けると存じます。
提案ですので、無理強いはしませんが、ご一考ください。
Posted by おしょう at 2006年10月11日 22:35
>>入力しているだけで、怒りのため血圧が上がります

確かに、ニュアンスは日露戦の意義を矮小化しようとしているように読めます。
世界的影響を与えた点、東郷提督の名前が欠落していますね。
ご提案有難うございます。私がやるとしたら、アメリカの教科書との比較のつもりが、日本の立場からのものも混ざってしまうと思いますが、やってみると面白いでしょうね。
Posted by 小楠 at 2006年10月12日 07:22
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