2008年04月22日

中共恒例祝日前殺人祭典

処刑者の頭数確保で発明された「悪攻罪」

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は文化大革命時の凄惨な殺人の実態です。
写真はハルビン郊外で民衆の前での処刑。マオより
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引用開始
 文革中、共産党の創立記念日、国慶節、元旦などの「祝日」の直前には、全国各地の大小都市でかならず「公判大会」と称する公開処刑のための群衆大集会が開かれた。都市の規模で異なるが、一度の大会で十数名から三十数名の「反革命分子」が人民裁判で死刑を宣告され、即時銃殺となるのが慣例だった。
 中学生の時分から四川省の成都市に住む私も鮮明に記憶しているが、「祝日」の直前になると、市内の街角のあちこちに死刑宣告の「布告」が貼り出される。大きな貼り紙に数十名の受刑者の名前と罪状が順番に並べて書かれているが、一人ひとりの名前に、「死刑」を意味する赤い字で☓☓☓という符号が鮮明につけられていることは特に印象的であった。時には、中学校の生徒全員が「公判大会」に動員されることがあった。・・・・
 しかしこれが恒例化してくると、各都市の「革命委員会」は処刑を行うための「反革命分子」の人数の確保にずいぶん苦労したようである。・・・

 そこで、各地方の「革命委員会」が考え出した唯一の解決法は、「反革命分子」という罪名の適応する範囲の恣意的な拡大である。
 たとえば、当時、流行っていた「悪攻罪」は、すなわち「毛主席に対する悪辣な攻撃の罪」の拡大解釈によって発明された。・・・拡大解釈が進むと、毛沢東の政策や政治スタイルにほんの少し疑問や不信感を呈するだけでも、「悪攻罪」として認定される。・・・
毛沢東の肖像画や語録を不注意で汚したり破ったりすることも、毛沢東の顔写真が掲載された新聞紙を使って野菜を包んだり竈の火を点けることも、ことごとく「悪攻罪」にされた。

階級の敵根絶のための大虐殺
 文革中、毛沢東の手先の紅衛兵や地痞流氓たちは時々、「階級の敵=人民の敵」にたいして集団大虐殺を行うこともあった。
 中国上海出身の文革史研究者で、現在は米国カリフォルニア大学に勤める宋永毅氏は、文革中に起きた一連の「集団虐殺事件」にたいする綿密な現地調査に基いて、2002年7月に『文革大屠殺』を上梓して香港の開放雑誌社から刊行した。後に『毛沢東の文革大屠殺』というタイトルで原書房から邦訳されたこの著作は、大屠殺の実態に関する最も確実な研究書であるといえる。・・・・

広西賓陽虐殺事件
 1968年7月3日、中国共産党中央委員会、中国国務院、中央軍事委員会が連名で「7・3布告」を公表し、全国の党組織、政府機関、人民解放軍にたいして、「階級の敵をいっそう厳しく鎮圧せよ」と殺戮の大号令をかけた。それを受けて、広西自治区賓陽県革命委員会はさっそく全県内において組織的な虐殺を実施し、有名な「賓陽大虐殺」を引き起した。

 1980年代に作成された『賓陽県「文化大革命」大事記』(内部文書)は、この大虐殺事件の全貌をこう記述している。
「全県で3681人が殺され、あるいは迫害されて死に至った。そのうち国家公務員が51人、労働者が27人、団体職員が75人、教師が87人、農民・住民が3441人である。最も多いときは34人が一時に殺されたが、殺害手段としては、銃殺する、刺殺する、縄で絞め殺す、刺股で突き殺す、棍棒で撲殺する、溺死させる、石で叩き殺す、というようなもののほか、個別に生き埋めにする場合もあり、非常に残忍であった。三兄弟がそれぞれ家主となっていた三軒の家ですべての男性合わせて10人が殺されたこともあった」
 多くの集団的虐殺のなかで、特に取り上げられるのは内モンゴルで発生した「内人党大虐殺」である。「内人党冤罪・虐殺事件」とよばれるこの事件こそ、文革中における組織的な集団殺戮の最たるものである。
「内人党」とは「内モンゴル人民革命党」の略称で、1920年代においてモンゴルの民族独立と共産革命の実現を目指して活動した党派のことである。
 1949年に中国共産党政権が成立し、内モンゴルが中国の自治区の一つとなってから、この党派はすでに自然消滅してどこにも存在していなかった。しかし、文革中の1967年から68年にかけて、内モンゴル自治区の革命委員会は党中央の指示下で、「現在の内モンゴルに内人党は依然として健在で、反革命的秘密活動を行っている」として、大規模な「内人党抉り出し運動」を展開した。主としてモンゴル族が34万人も逮捕・監禁され、名前が分かっている者だけでも5万人以上が惨殺された。

『毛沢東の文革大虐殺』が引用した目撃者の記述によれば、次のような殺し方をされたという。
「内モンゴル物資局の金雪雲同志は共産党員だったが、下手人どもにヤットコで歯を一本一本抜かれ、鼻と耳をねじ切られ、・・・ついに下手人どもに腰の骨を折られて死んだ。
 伊克昭盟の小白秀珍同志(モンゴル族)は、殴られ瀕死の状態にされた上、悪事の限りを尽くすその暴徒たちに輪姦され、そのあと火掻き棒を膣に差し込まれて腸を引きずり出されるという惨たらしい死に方をした」
 四子王旗白音敖人民公社の秘書を務めるモンゴル族の敖日布扎木蘇の場合、一家の殺され方はもっと悲惨なものであった。
「(下手人は)身体をナイフで切り裂くと傷口に塩を揉み込み、そこへ焼き鏝を当てた。こうして敖日布扎木蘇を斬殺したあと、今度は妻の道爾吉蘇を捕まえて何度も強姦し、火掻き棒を膣に差し込んで生きたまま突き殺した。こうして両親を共に失った家には、生れて五ヶ月にもならない子供が一人残されたが、その子も餓死した」
 以上が、宋永毅氏の労作である『毛沢東の文革大虐殺』に描かれた文革中の一連の大虐殺事件の概要と事例の一端である。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:12| Comment(0) | TrackBack(1) | 書棚の中の中国
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