2008年04月19日

中共政権後の大虐殺

200万人の命を奪った土地改革運動

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は国民党との内戦に勝利し政権を樹立してから、思う存分大虐殺を断行した中国共産党です。
写真は大量公開処刑、地主や特務(スパイ)の字が見える。マオより
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引用開始
 政権樹立の翌1950年初頭から、中国共産党政権はさっそく全国規模の「土地改革」を実行した。それは、今まで「革命根拠地」で行ってきた、地主、素封家たちを対象とする「一村一焼一殺」を、全国的に展開していくことであった。全国の村々の農民を総動員して地主たちを吊るし上げ、土地その他の全財産を奪ったのである。
 地主たちから没収した土地以外の財産はすべて政権側の懐に入り、新しく成立した中華人民共和国の国家財政を支える重要な財源となった。土地はすべて農民に配分されたが、もちろん中国全土の農民は、共産党政権にたいし「公糧」と称する年貢を納める義務を負わされた。・・・
 それでも、全国で吊るし上げられた六百数十万人の地主のうち、200万人程度は確実に銃殺された。「革命根拠地」開拓時代から共産党軍の協力者だった「地痞流氓」(地域のならずもの)の多くが、出世して立派な「農村幹部」となっていた。彼らの多くは「土地改革のプロ」として、共産党政権が新しく支配した地域に派遣され、土地改革の指導に当っていた。
 指導に当った地域や村では、以前のような「一村一殺」がそのまま再現され、殺戮の嵐がふたたび吹き荒れた。結果、全国で約200万人の地主が命を落としたのである。
 これは、中国共産党政権が天下をとってから、自国民にたいし行った最初の大量虐殺である。


 翌1951年になると、毛沢東からの強制的な殺人命令により、全国規模の大虐殺がまたもや始まった。「反革命分子鎮圧運動」である。共産党政権はこの一年間で、71万人の「反革命分子」と称される人々を人民裁判にかけて銃殺してしまった。・・・・
 手法はこうである。まず、各地の共産党組織が動員大会を開き、反革命分子を告発するよう群衆に呼びかける。そして、群衆からの告発に基くという形をとって、共産党政権が事前に目をつけた反革命分子たちをいっせいに逮捕する。即座に人民裁判にかけ即座に銃殺する。
 1998年に中国本土で出版された『鎮反運動実録』という書物で、「反革命分子鎮圧運動」凄まじさを垣間見ることができる。
 首都北京の場合、動員大会がなんと626回も開かれ、参加人数は330万人以上に達したという。
「(1951年)3月24日、北京市は15000人以上参加する人民代表連合裁判大会を開催し、反革命分子による破壊活動の証拠を示し、被害者による血と涙の告発を行った。大会の模様は、ラジオを通じて全国に生中継された。翌日公安当局は、告発された399名の反革命主犯をことごとく逮捕して、彼らがかつて悪事を働いた各区域へと連行した。各区域の人民法廷はさっそく反革命主犯たちの罪状を公表した上で、その場で判決を言い渡し、直ちに処刑したのである

 この記述を少し吟味してみれば、「裁判」がまったくの茶番であることがよくわかる。人民裁判の実施にあたって、いちおう「反革命分子による破壊活動の証拠提示」や「被害者による血と涙の告発」が行われている。3月24日の「人民代表連合裁判大会」では、一日で399名の「反革命分子」にたいする「証拠提示」や「告発」があったという。しかしその際、たとえ朝から晩まで裁判がずっと行われたにしても、一人の「反革命分子」の裁判に費やせる時間はせいぜい2分程度にすぎない。2分間で、いったい何の証拠を提示し、何の告発を行うというのか。茶番以外の何ものでもない。
 要は、「破壊活動の証拠提示」も「血と涙の告発」も、単なる形式を整えるための儀式にすぎない。殺す人間の数とメンバーは最初から決められていて、それに従って「粛々」と儀式が進んでいっただけなのだ。何しろ、毛沢東主席からノルマを課されているから、それだけの人数を殺さなければならないのである。
 3月の処刑からわずか2カ月後の5月22日、同じく北京で、同様の手法によって、421名の反革命分子が銃殺され、584名の者は無期懲役を含めた懲役に処せられた。
 そして9月6日には北京で3回目の大量処刑が実行され、今度は318名の反革命分子が命を落とした。

 地方の例も見てみよう。
 たとえば国際的な大都会の上海では、1951年4月30日、一度に585名の反革命分子が銃殺された。わずか一カ月後の5月31日には、405名の処刑が行われた。上海の共産党政府はこれで満足せず、半月後の6月15日、またもや380名の頭に「人民の怒りを込めた」銃弾を打ち込んだ。つまり4月30日からほぼ一ヵ月半の間に、上海という一つの都市だけで、1370名が殺された。・・・・
 広東省も、他省に負けていない。次の記録を見るとわかる。
「1951年1月23日の午後、中国共産党華南局第一書記・広東軍区司令官葉剣英の陣頭指揮のもと、人民解放軍第二軍、四十四軍、四十五軍は、各地公安当局の協力を得て、広東省全域で大規模な逮捕作戦を展開した。各地方から軍区へ報告された数字によると、一日で、匪賊の頭、悪党、スパイなど11000人が逮捕された。夜には第一回目の処刑として、1700名が広州および各地方都市へ連行され、そのまま銃殺された。
 それからの三日間、広東省だけで二回にわたり、5000人近くが銃殺された。
 広東の実例からも見られるように、三日間という短時間内で一万人規模の人々を突如逮捕し、5000人を即座に処刑してしまうのは、まさに反革命分子鎮圧運動の典型的なやり方であった」
以上は、共産党が支配する中国国内で出版された書物に記述された、鎮圧運動の実態である。
・・・・当の中国政府は、むしろ「反革命分子鎮圧」の輝かしい「成果」として、誇らしげに発表しているのである。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:04| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国
この記事へのコメント
この連載には戦慄を覚えます。
私は『大地の子』や『ワイルド・スワン』のような小説で読んだことがあるだけですが、「民衆を巻き込んだ虐殺の波」みたいなものをつくり出す中国には得体の知れない不気味なものを感じました。

ご紹介の石平氏の著書では、当時の中共の意図が明確にされていて、どんなにむちゃくちゃだったのかがよくわかりますね。チベット問題が注目されている今、このような連載を設けられるのは非常に意味のあることだと思います。
Posted by milesta at 2008年04月20日 00:47
milesta 様
同胞に対してもこれですから、異民族のチベット人に対してはなおさら容赦無しの大量殺戮が行われていたのでしょう。
勿論今現在も。
中国共産党というのは、全人類に対しての犯罪者ですね。
どこの国の共産主義者も、根は同じでしょうけど。
Posted by 小楠 at 2008年04月20日 13:31
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