2008年04月15日

将軍の小姓の身の上話4

維新の将軍慶喜に仕えた小姓4

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。

引用開始
 戦闘の知らせは、たちまちひろがり、もちろん将軍の耳にも入った。この日、御前は、後になって官軍と知られる側に加わっていた主な一大名の家老に謁見を許した。この家老は、将軍に毅然とした態度を取るように促し、そうすれば、刀一本たりとも、将軍に向って抜かせないと保証した。
 突然、使者が駆け込んで来て、伏見の戦闘が始まったことを告げた、ただちに混乱状態が起った。
戦闘は三藩に有利だった。その最中に、極めて嘆かわしい裏切りが起った。伏見に布陣していた津藩が敵方に投じて、友軍に刃向かって来た。この大名の偉大な祖先は、家康の最も忠実な部下の一人だったし、誰も、こんな卑劣な戦場放棄が起ろうとは、考えても見なかった。
 養父が将軍に従って大坂に行った時、私も同行した。それで、私は事態の進展を目撃していた。

 戦闘と幕軍の敗退を聞くと、慶喜はただちに江戸への出発準備を命じた。そこで養父は急いで、心斎橋近くの舟小屋から小舟を手に入れ、将軍はこれに乗って、在港中の汽船へ急いだ。将軍と数人の御老中と役人は、無事に開陽丸に着いた。ただちに蒸気があげられ、進路を江戸に向けたそうだ。
 今や、あらゆる困難が始まった。私自身についていえば、どうやって逃げたのかわからない。養父は御前と同行し、私は一人城内に残された。大部分の兵士が恐怖にとらわれた。たくさんの千両箱を見たが、誰も最初は、それを持ち出そうとは思わなかった。みんな自分の命のことだけ考えていた。ついに、ほかの者よりも冷静だった一人の役人が全兵士に、全力を尽して、紀州へ向うように命じ、千両箱はその路銀にあてるために持ち出された。
 奥女中は、開戦の数日前に、海路から江戸へ行った者もあったので、そこは、すでに人気がなかった。
 三藩の兵士は素早く大坂に着き、徳川軍が放火していた城を占領した。そしてくまなく捜索した。その間にある者は外国公使館へ向った。ここでも人気はなかった。

 私は堺へ逃れ、親類の家に行った。十五歳の少年には、『誰も注意しまい』と思われたが、私はその家にも長くいなかった。その後ほどなく、土佐兵士が堺に着き探索を始めた。私は逃げて、燈台の近くの漁船にもぐり込んだ。猟師達は、たまたま舟のいけすを空にしていたので、この中に数人のサムライと私とが、身体をぎゅうぎゅう押し込み、疑われないように、上の板をしめた。
私は着のみ着のままで大阪を去った。持物すべてを残して来たが、お金はいつも豊富に用意していて、腰にまいていた腹巻の中にしまっておいた。堺から約二百三十里の、今は豊橋と呼ばれているが、吉田まで私達を連れて行くように猟師達を承諾させた。この小舟で、私達がどんなに辛い目を忍ばねばならなかったは、いうまでもない。海は大層荒れ、みんな濡れてしまった。そして私達のうち、誰かが絶えず手桶で水を汲み出していなければならなかった。
 目的地に着いた時、徳川軍が敵方から虐殺されたという恐ろしい知らせを聞いた。知らせの多くは本当だった。しかし私は比較的安全で、私自身については、これ以上話す必要はない。

 将軍は江戸に到着し、閣老と相談したのち、ミカドに対する絶対の恭順と上野へ隠退することを決心した。上野には、先祖の墓が彼を取りまいている。
 徳川方のすべての者に、『自分にならってミカドに服従するように』という命令を下した。この命令は、いろいろの人から、いろいろなふうに判断されたが、この命令は、将軍と将軍の大義のために最後の血の一滴を流そうという多くの人々からは、強い非難を受けた。

 将軍は江戸を去り、水戸に留まるように命令を受けた。そこでただちに水戸へ赴いた。それ以来、彼は完全に隠遁生活をして来た。これまでのところ、彼が公的生活に戻るかどうかという見込みは全くない。政府は彼にいろいろな申し出をしたということを、何度も聞いたが、政府がそういうことをしたという話は、疑わしいと思う。そして万一にも、政治生活に戻るように進められたたとしても、彼が断わり続けて欲しい、と私は思う。
 彼は今駿河(静岡)にひきこもっているが、まだ数千人の旗本やサムライに囲まれている。彼は日本に非常に忠誠を尽しているから、現在の平穏を乱すようなことはないと私は確信しているが、彼の合図さえあれば、非常に恐ろしい部下達が、彼の旗の下に集るであろう。
 これまでに起った変革の中で、徳川家の家来の衣食を考える必要から、『有能で、政治に役立ちたいと望む者は、忠節を東京府に勤めかえてもよい』という指示があった。そこで多くの者が新制度に忠実な臣民となっている。しかし、全国には今なお、徳川家以外に奉公することを拒んでいる者もいる。
 慶喜の引退で、田安家の養子で、亀之助という八歳の少年が、徳川家の家長に指名された。しかし、古い身分はすべて廃止されたので、彼は他の大名と同様に、今はただの華族―― 一貴族にすぎない。慶喜さまの現在の名はイチド―という。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
この記事へのコメント
 明治維新を考えた時、坂本竜馬や中岡慎太郎の様な在野の志士、西郷隆盛や木戸孝允の様な倒幕側の視点から見ることが多く、維新戦争は必要だったかのように思っていましたが、慶喜公になってからは、必ずしも必要ではなかったようですね。(諸藩からの反対は必至なので、もっと最悪の事態もありえたでしょうけれど)

 竜馬暗殺に薩摩陰謀説もありますが、倒幕側が、慶喜公に同調した竜馬を暗殺し、一気に戦争に持ち込んだなんていうのもありえるのかな。なんて思いました。

 それにしても、家康の再来とまで言われた慶喜公の人柄がにじみ出てくるようですね。面白かったです。
Posted by 靖国の小石 at 2008年04月15日 14:06
靖国の小石様
コメント有難うございます。
私も「ヤング・ジャパン」の中でこの部分には大変興味がありました。
この内容から見ると、慶喜公は維新が必然的なものだと言うことを判っていたように思いますね。
完全に敵対していたら、もっと大規模な内乱になっていたのかも知れません。
Posted by 小楠 at 2008年04月16日 21:51
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