占領国が被占領国の憲法まで制定するなどと言うことは、国際法上許されるのでしょうか。「ポツダム宣言」という条件をのんで、日本は有条件で降伏したにも拘わらず、完全武装解除した上に、GHQはあたかも無条件で日本国が降伏したかのように振舞いました。
「われ巣鴨に出頭せず」(近衛文麿と天皇)工藤美代子著より引用開始
【憲法改正の提案】
昭和二十年九月十三日午後五時、近衛はつてを頼ってまだ横浜にいたマッカーサー元帥を訪問した。・・・・近衛はおそらく重要な日本人としては初めてマッカーサーと会見した人物ではないだろうか。有名になった天皇のマッカーサー訪問は九月二十七日になってからである。
横浜税関のビルで会った元帥は、日本の軍閥の外形はあらかた破壊したから、今度は近衛らがその内実を破壊するべきだとし、日本軍閥に非常な嫌悪を示したという。・・・・・
天皇とマッカーサーの初会見が成功裏に終わったのを見届けた近衛は、再び元帥を訪問する機会に恵まれた。
十月四日、・・・近衛は第一生命ビルの石段を昇っていた。近衛は、おおむね次のように話した。元帥のほかに、その側近であるジョージ・アチソン政治顧問とリチャード・サザランド参謀長が同席し、通訳には近衛側が外務省参事官奥村勝蔵を用意した。アチソンはバーンズ国務長官から総司令部に派遣されている実力者でもある。
「軍閥と極端な国家主義者が、世界の平和を破り、日本を今日の破局に陥れたことには一点の疑いもないが、皇室を中心とする封建的勢力と財閥とが演じた役割とその功罪については、米国に相当観察の誤りがあるのではないかと思う。
彼らは、軍国主義者と結託して今日の事態をもたらしたと見られているようだが、事実はその正反対で、彼らは常に軍閥を抑制するブレーキの役割をつとめたのである。軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実にマルキストである。日本の今日の破局に陥れたものは、軍閥と左翼との結合した勢力であった。しかるに日本では、財閥と封建的勢力を除いて安定勢力はない。
自分はいわゆる封建勢力の出身で、このような議論は言いにくいが、決してかかる勢力を弁護しようとするものではない。ただ、今日直ちに一挙にこの安定勢力を除去すれば、即ち日本がすぐ赤化に走るということを強く指摘したいのである」
マッカーサーは近衛の話を聞き終わると、
「有益で且つ参考になった」
と言った。この後二人はいくつかの問題点を友好的な雰囲気で語り合い、最後に近衛が、
「私としては、種々の事情で思ったことを十分成し遂げられなかったが、今後元帥の激励と助言により、国家のためできうる限りご奉公したい」
と述べると、元帥から、
「まことに結構である。公はいわゆる封建的勢力の出身ではあるが、コスモポリタンで世界の事情にも通じておられる。又、公はまだお若い。敢然として指導の陣頭に立たれよ。もし公がその周囲に自由分子を糾合して、憲法改正に関する提案を天下に公表せらるるならば、議会もこれについてくることと思う」
と近衛を持ち上げた。
この会見で、近衛は憲法改正案を作るという大責任を負ったのだった。それはなによりマッカーサーがアチソン顧問を同席させたため、一層現実性を帯びた提案であると日本側には考えられた。・・・・・
幣原自身は余りこの憲法改正に興味を示さなかった。そこで木戸と石渡宮相は司令部と近衛の良好な関係を考え、天皇にも承諾を得た上で近衛を内大臣府御用掛に任命し、そこで研究ができるよう計らった。
ここに、近衛はマッカーサーからも天皇からも憲法改正を正式に委託されることになったのだ。
十月八日、近衛はアチソン顧問を訪ねて意見交換をした。同道した高木八尺は学習院中学以来の学友で今は東大法学部教授。松本重治は共同通信記者で近衛のブレーンの一人。牛場友彦は近衛の秘書兼通訳だった
アチソンはその席で積極的にいくつかの私案を示した。・・・・・
これを受けた近衛や高木は、京大の憲法学者である佐々木惣一博士に相談することを決めた。・・・・・
ところが、どうしたわけか幣原がここへ来て、
「憲法改正は重要な国務であるから、調査、立案は政府が責任を持ってやるべきだ」と言い出した。・・・・・
箱根で審議中の改正案の骨子が、新聞紙上に歪曲されて報じられたことも火種になった。主な新聞が戦争責任のある近衛が新憲法を作るのはいかがなものか、といった論調を載せていたために内閣では世論に押されるかたちで独自の審議委員会作りを進めたのだ。・・・・・・・
だが、近衛には総司令部のお墨付きがあって、憲法改正を委嘱されたという自負があった。
ところが、こうした近衛の自負や自尊心を根底から覆す出来事が次々に起こり始めるのだった。
最初の衝撃波はアメリカ本国から来た。「ニューヨーク・タイムズ」紙が「憲法改正処理に、近衛公は不適任」という社説を掲げたのだ。
十月二十九日の「朝日新聞」と「毎日新聞」はこの社説を紹介した。ここでは「毎日」の記事を引用しておく。
「二十六日のニューヨーク・タイムズ紙は『強制による自由』と題し次の如き社説を掲げている。――近衛公の如き者が日本新憲法の起草に選ばれたことを見ながら、なお米国の究極目的の達成が可能であると考えることが出来るだろうか。長期且つ恐るべき日本のアジア侵略期間中近衛は何回となく首相に就任した。圧迫政治に尽くした近衛がマッカーサー元帥により戦争犯罪人として牢獄に放り込まれたとして恐らく誰一人として驚くものはあるまい。もし彼が日本のため憲法を起草するに適当な人物であるならば、キスリングをしてノルウェー国王に、ラヴァルをしてフランス大統領に、そしてゲーリングをして連合国の頭首に就かしむべきである」
十一月一日、今度は総司令部が手のひらを返したような仕打ちに出てきて、近衛とその関係者に決定的な衝撃を与えた。総司令部の声明を要約すればこうである。
「憲法改正のことは、東久邇宮内閣の副首相としての近衛に委嘱したことで、内閣総辞職によって当然解消したものとし、総司令部は幣原新首相に対し憲法改正の指令を発した。近衛のやっていることは単に皇室との関係に過ぎず、総司令部は関知しない」
それにしても、マッカーサーが近衛に「公はまだお若い。敢然として指導の先頭に立たれよ」と発言してから一ヶ月にもまだ満たない時間に何が起きたのだろうか。
その鍵を握る人物が実は九月初めにカナダから東京入りしていた。彼が握る情報を検証しなければ近衛の無念は果たせない。
引用終わり。
この後、ハーバート・ノーマンと都留重人のことが書かれていますが、近衛を戦後の評価のように、弱いとか優柔不断とかにしてしまった本人たちはこの二人の共産主義者たちであったのだろうとしています。そしてそこには、死者に鞭打った朝日新聞、毎日新聞の影響も大きかったようです。
最後に掲載されていた「戦略爆撃調査団」の近衛公尋問の内容は、近衛公の潔さがはっきり現れていました。
1907年10月18日 オランダ ハーグ 陸戦の法規慣例に関する条約の中の、「條約附属書」、「陸戦の法規慣例に関する規則」第五章 休戦
第三款 敵国の領土に於ける軍の権力の項目は次の通り
です。
第四二條: 一地方にして事実上敵軍の権力内に帰したるときは、占領せられたるものとす。占領は右権力を樹立したる且之を行使し得る地域を以て限とす。
第四三條: 国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法律を尊重して、成るべく公共の秩序及生活を回復確保する爲施し得べき一切の手段を尽くすべし。
第四五條: 占領地の人民は、之を強制して其の敵国に対し忠誠の誓を爲さしむることを得ず。
2006年10月06日
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>>憲法制定の舞台裏にも共産主義者の暗躍
もう本当に昔も今も共産主義者や反日のやっている真実のことを、日本国民がもっと知る必要を痛感します。