2008年04月14日

将軍の小姓の身の上話3

維新の将軍慶喜に仕えた小姓3
今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。

引用開始
 私は、丈夫な身体ではないが、幼い時から父に剣術を教えられていた。それで、剣術では、相手として人から軽蔑されることは決してなかった。また槍と弓術の使い手だったが、特に所望されないかぎり、殿中では自分の力量を見せたことはなかった。
 将軍の一番のお気に入りの競技で、また非常にすぐれていたのが打球(馬上ホッケー)で、小姓達に競技に加わるように命じるのが常だった。また時には、一緒に射撃をするように命じることもあったが、これは、めったになかった。私は馬術では上達していなかったが、少しは心得があり、これは将軍が教えて下さった。

 以上が殿中における表面の生活だったが、私どもはみな、主人の心に重荷がかかっていることを知っていた。この重荷に堪えるには、毅然とした人物が必要だった。私どもは始終、将軍の傍にいたが、幕府内部で起っている事柄を聞くことはなかった。
 将軍が普段よりも落ち着かなく見える時もあったが、概してもの静かで、無口だった。今となっては、将軍の生活が幸福だったというわけにはゆかなかったと思う。というのは、友人がいなかったからだ。
 大名でも、将軍とははかり知れないほど、身分の低い者と見なされていたので、彼らと交際することは不可能だった。将軍の前に出る大名は、床まで頭をすりつけて、会見の間中この姿勢でいなければならなかった。したがって、将軍との食事に招かれることはなかった。将軍が大名や他の人と会うのは、厳密に政治に限られていて、それも作法ずくめだった。
 大坂と兵庫を外国人に開港する時期が迫って来た頃の京都の興奮状態を、私はよく覚えている。当時十五歳にすぎなかったが、それでも、私の外国人に対する偏見が、他の日本人同様に、強かったことを十分覚えている。将軍が、外国人について何かいわれるのを聞いたことはなかった。しかし、大坂で仏国公使が将軍を訪れ、公使は、贈物として徳川家の紋入りの刀を授けられ、早速それを革帯にさして、城を辞去した時、私はお傍にいた。

 一隻の英国の軍艦から一人の写真師が、将軍の肖像を写すために招かれた時にも、お傍にいた。光栄にも、私は養父と一緒に、その写真を一枚いただいた。今でもそれを持っている。
 英国公使接見の時のことを覚えてはいるが、同席はしていなかったと思う。
1867年の終わり頃、私どもみんなが、諸港の開港日を待ち受けていた時に、事態は極めて注目すべき様相を取り始めた。
 使者が絶えず城中に出入りし、諸侯とか家老に対する接見は時間を選ばず、行われた。事態が危険な形をとっていたことはわかっていたが、しかしそれでも、将軍の支配を覆す陰謀がありえよう、とは思わなかった。これは、将軍がなんの心配も示していなかった、ということではない。というのは、将軍はたしかに一再ならず、自分が抱いている苦しい疑惑を示していたから。だが、将軍が実際に力による滅亡を感知していたと思うことはできない。
 それらの事件を回顧し、私の周囲の動向について、当時よりももっと多くのことを今知ってみると、将軍自身がこれまでの変局を導き出した機関となったとしても、将軍は残念に感じていなかったろう、と思う。しかし、正直のところ、当時は事態について、私はあまり考えてみなかった。開戦前の二、三日間の京都は、非常に異常な静けさがみなぎっていた。すべての人々は、大戦闘が切迫しているのを予想して、家を締め、商売をしようとしなかった。

 1868年1月に、慶喜は、自分の居所にしていた京都の二条城をひそかに離れて、大坂へ下った。馬に乗り、同様にわずかの騎馬の従者を率いて立ち去った。翌朝早く、無事に大坂城に着き、今後の最善策について、幕臣会議を開いた。
 ある人は、『将軍は大権をミカドに返還すべし』と主張し(私の思うところでは、将軍は先にそうしたが、ミカドが将軍の辞意を承認しなかった)、他の人は、『将軍に忠誠を尽す多数の藩の首長として、反旗をひるがえす藩と戦うべきだ』と忠告した。
 薩、長、土の三藩が離反者の首領だった。薩摩の野心こそ、将軍に対して、はなはだ強力に反抗させたものであることを、私でも知っていた。
 将軍が大坂に来て何日もたたないうちに、京都に帰るように、という勅命を受けた。そこで強力な大軍を率いて、帰京する準備がととのえられた。先陣は出発したが、全軍が大阪城を出発するまでには四日かかり、将軍は最後の部隊と同行する予定だった。
 先陣が伏見に着くと、三藩の前衛部隊とぶつかり、敵は先陣が町を通過するのを妨害した。交渉が行われている最中に、すさまじい小銃の一斉射撃が聞え、両側の竹林から弾丸が雨あられと飛んで来た。これが内乱の始まりだった。この日多くの死傷者が出た。
引用終わり
次回に続けます。
posted by 小楠 at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
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