今度はアメリカの中枢にもソ連のスパイが暗躍し、日米交渉にも大きな影響を与えていたことを、この本からも見てみましょう。
「われ巣鴨に出頭せず」(近衛文麿と天皇)工藤美代子著より
引用開始
【甲案・乙案】
昭和十六年十一月五日、ここまで連日のように連絡会議を開いてきた東條はようやく野村大使宛に甲案、乙案の二案の訓電を送るところまでこぎつけた。これは日本側の最終回答だった。そこで野村を補佐する特派大使来栖三郎をアメリカへ送ることになった。来栖がワシントンへ着いたのは十一月十五日のことだ。
東郷外相が考えた甲案は、いわば九月六日の決定を穏やかに改定したものだった。その肝心な部分は、日本軍の支那および仏印からの条件付撤退である。アメリカからいつ撤退するのかと問われたら、二十五年と答えるようにと注が付記されていた。
直ちに撤退せよ、というアメリカに二十五年では到底話になるまいと今日の常識では思われるが、陸軍は九十九年を主張したくらいだから止むを得ない。陸軍に言わせればイギリスはアヘン戦争以後、香港を九十九年間も租借地としたではないかという理屈になる。
乙案は、アメリカが甲案に難色を示した場合の代案だった。基本的な難題をすべて棚上げしてこれ以上日本は侵攻をしないから、物資通商を以前の環境に戻して欲しい、というものだった。
だが何のことはない、ハルの机には甲も乙もとっくに無線傍受されてその引き出しに入っていたのだ。ただ感づかれないために、彼らは慎重な言い回しで共同宣言を提案したり、誠意を示すような素振りだけは忘れなかった。・・・・・
来栖の渡米は何の役にも立たなかった。ハルは来栖と反りが合わなかったと、次のように書き残している。
「彼の顔つきにも態度にも、信頼や尊敬を呼ぶものがなかった。私は初めからこの男は嘘つきだと感じた。彼の役目は、日本の攻撃準備ができるまで、会談でわれわれを引き摺っておくことだった」・・・・・
不信感に満ち満ちた双方の交渉に追い討ちの鉄槌を下すような覚書が、ハルから野村と来栖に手交されたのは、十一月二十六日のことだった。
来栖はそれを読んで、
「これでは日本政府は手を上げるしかない」
と言った。それは「日米間協定の基礎概略」と書かれた書類に、「両国政府がとるべき措置」として十カ条が記されたものだった。
いわゆる「ハル・ノート」と呼ばれる文書だが、そもそもはモーゲンソー財務長官が起案したのを大統領が採用し、ハルに渡したものである。
なぜ、外交と直接関係の無い財務省が加わってきたのか、しかも実際に文書作成を手がけた人物はモーゲンソー長官の部下であるホワイト財務省特別補佐官だった。
ハル・ノートの主要問題箇所は次の二点だといっていい。
1,日本国政府は支那及び印度支那より一切の陸海軍兵
力及び警察力を撤収すべし。
2,米国政府及び日本政府は臨時に首都を重慶に置ける
中華民国国民政府以外の支那におけるいかなる政府
もしくは政権をも軍事的、政治的、及び経済的に支持
せざるべし。
この電報を受取った東京は愕然とした。
東條は、この日のことは生涯忘れない、と真赤になって怒ったが大本営ではこれで開戦間違いなしという歓声も上がり主戦派は勢いづいた。
皮肉にも主戦派を興奮させたのはルーズベルトとハルだった。ハル・ノートを最後通牒と受け取るべきではなかった、という説が今日でも交わされるが、ハル・ノートを受諾しこれを逆手にとる外交手腕もなかったし、陸海軍はもう止まらなかっただろう。
驚くべきクレムリンの情報工作が明るみに出たのは戦後になってからだった。
ハルが手交したとされるノートを作成した元財務省特別補佐官H・D・ホワイトなる人物は、実は戦時中からソ連KGBのスパイであったことを、マッカーシー上院議員の下で開かれた査問委員会が明らかにした。
多くのスパイ容疑者の名前の中には、極東問題の専門家として働いていたオーエン・ラティモア教授の名もあり、彼らの一連のスパイ行為はやがて明白となり衝撃的な影響を与えた。
「ジュリスト」「リチャード」というコードネームを持ってホワイトハウス内部に侵入したホワイトは、モーゲンソー財務長官の腹心として認められた。戦後は国際通貨基金(IMF)創設に尽力もしている大物財政通の顔を持っていた。
彼はソ連のスパイである事実を認めないまま謎の死を遂げたが、やがて当局は当時のKGB暗号の解読に成功し、彼がスパイであったことが判明した。
この筋書きに従えば、コミンテルンの指示によってゾルゲから尾崎へと伝わった日本軍の仏印進駐により、アメリカがハル・ノートを出しやすい環境をまず整えておく。その上でホワイトハウスの深部に潜入したホワイトが、日本を挑発させるような文案を用意し国務長官に渡したことになる。
これならば、「モナコでもルクセンブルク大公国でさえも合衆国に対して戈をとって起ち上がったであろう」(パル判事)といわれたハル・ノートは、決定的な効果を挙げるはずだとスターリンは読んでいた。この有名な言葉は、実はパル判事より前にブレイクニー弁護士が最終弁論中に使った言辞をパルが引用したものだとの説がある。
引用終わり。
日本は当然アメリカも戦争を回避したいと考えているという前提で甲案、乙案を提示していますが、アメリカは何とか日本に戦争を始めさせたいと考えていたのですから、交渉がうまくいくはずはありません。
ハルは来栖を嘘つきだとか言ったようですが、本当の嘘つき、はルーズベルトとハルです。
ルーズベルトは飽くまで「無条件降伏」を考えていましたから、もし、ルーズベルトが生きていたら、日本は本土での戦闘、しかもソ連が侵入してきて、日本が二分され、日本人どうしが戦うというような最悪の事態にもなっていたでしょう。
この事態を避けられたのが「ポツダム宣言」で、これには元駐日本大使、グルーの功績が大であったと言われています。
2006年10月05日
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日本人同士が戦うことになったかもしれないと言う意味では、日本分割統治案も思い出します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%88%86%E5%89%B2%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E8%A8%88%E7%94%BB
本当に、このようなことにならなくて良かった。これが廃案になった理由は定かではないそうですが、戦後の情勢を見れば日本人同士の戦争が起きていた可能性は大きいでしょうね。
それにしても、スターリンとコミンテルンは、世界人類にとっても、敵でしょう。
その残滓のような輩が未だに国内にいることが腹立たしいです。
ゴミ…もといコミンテルン国内残滓、自分が間違った判断するときもあるって学ぶことが一生のうちにあるんだろうか……。
>>情報戦で勝った結果が日露戦争、負けた結末が太平洋戦争
なるほどね、確かに当時の日本には情報戦という概念も持っていなかったかのように思えますね。
反対に大嘘まで宣伝した中国はしたたかです。
>>本日はハルノートが提示された日ナリ。
そうでしたね、当事の関係者が唖然とした日ですね。
外務省も全く機能しないし、政治家も官僚を使えない。
こんな姿の政府は日本だけじゃないですか。
官僚亡国とはよく言ったものです。