2008年04月12日

将軍の小姓の身の上話2

維新の将軍慶喜に仕えた小姓2

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。

引用開始
 私が立ち去ろうとした時、御前は私に、「大きな漢字で詩の一節を書いてみよ」と仰せられた。侍女の一人がしとやかに硯や筆などを持って来て、私に渡した。私は五、六節したためた。しかし、御前はすぐに私の帰宅を許さず、気晴らしのために使う小舟のある池へ、みずから連れて行って下さった。しばらくの間、御前は舟を漕いだ。また網で魚をとり、網の投げ方を教えてくれた。そのあとで彼は、一羽の鷹が空に美しい輪を描いているのを見て、短銃を取り、発砲して殺した。これを見て、私は、将軍が射撃に非凡な腕を持っているという噂が、本当であることを知った。その後将軍が射撃するのをしばしば見たが、滅多に的をはずしたことはなかった。
 将軍は非常に親切だったので、その善良を強調したいと思う。私が辞去する前に、将軍は私に外国のオルゴールと数枚の洋紙――当時日本人の間では比較的珍しかった――と鉄砲、射止めた鷹を下さった。文字どおり、私は将軍の恩を身に受けて帰宅した。これが私の慶喜様についての最初の体験だった。

 帰宅すると、養父は、私が非常に光栄に浴したことを知って、非常に喜び、のちのちまで長い間、語り草となった。その後しばしば御殿に出向き、いつも将軍から、同じように厚遇され、侍女や、その他御殿のすべての人からも厚遇を受けた。
 この頃は、私にとって平穏な日々だった。私は、すぐれた漢学者から教えを受け、上達と勤勉を賞められるのが好きだった。私はこの首都で、美しさと古さと、歴史的な由緒で有名なものはすべて見に行き、人生は全く晴天であるかのように見えた。特にその頃を振り返ってみる時、輝く広い光の道がこの時期を照らしていて、そのために、それ以前のものも、それ以後のものも、すべて一層暗い闇に投げ込んでしまう、と思われた。養父は限りなく愛してくれ、私の未来は、輝かしく、幸福な生涯となると、定まっているように思われたが、永久には続かず、これについては、説明する機会が別にあるであろう。

 登城する回数が多くなるにつれて、自分が次第に、ほとんど無意識のうちに、小姓役をつとめていることがわかった。この職務がどんなか、日本の慣習を知らない人間に説明することは、難しい。だが、殿中における日常生活について述べれば、わかりやすいであろう。
 将軍は概して、朝八時頃起き、すぐ身づくろいをする。小姓の一人が毎日将軍の髪を結う。将軍の髪を結ぶ元結は、もちろん毎朝新しいもので、どんなものでも、二度と身につけることはなかった。はっきりと理解していただきたいことは、私のいっているのは、将軍の下着だけが新しいのではなく、衣服のあらゆる部分――主として最上の絹でした――が新しかったということだ。
 むろん将軍の寝所は大奥にあった。身づくろいがすむと、簡単な朝食。七膳か八膳が、将軍の前に置かれ、各膳には、魚とか、薬味が盛ってあった。全国各地から届けられるあらゆる種類の食物が盛られ、通例将軍は朝食を一人でとった。不幸なことに、正妻は京都にはいなくて、将軍が家茂に従って南下した時は、江戸に残っていた。十時に将軍は表御殿に行かれ、御老中に会い、政務を執る。午後には、小姓室に行って遊んだ。将軍は馬術にすぐれていると同様に、巧みなスポーツマンで、次の二、三時間は、スポーツや馬術に熱中した。鉄砲射撃と同様に、弓術を好み、第一級の鷹匠でもあった。

 午後三時か四時頃大奥に帰り、夜まで休息する。暖かい気候の時には、気楽にくつろいでいる間、侍女が扇であおぐ。六時頃夕食。この食事に並べられる食物は、実に豊富で、素晴らしい盛り付けであった。
 ここで慶喜様が、日本の貴族の間に、外国の慣習と同様に、外国の食物を紹介した最初の人だ、ということを話しておいてもよかろう。将軍は一人で食事をとり、侍女がかしずくが、その数は時には二十人か、それ以上になる。夕食は普通十時か十一時まで続き、そのあと、まもなくお寝みになる。頻繁ではないが、ときどき将軍は音楽を楽しんだ。しかし、三味線は、つまらない下品なものと思われていたので、殿中では、弾くことを許されなかった。琴やその他の多くの楽器が使われた。楽器の二、三は、外国人は日本人ほどには評価していないと思う。しかし、大部分の日本人は、外国の楽隊について、外国人が日本音楽について考えると同様のことを考えていた。すなわち外国人の音楽は騒々しい雑音だ、と。この意見に私は賛成ではない。
 毎日の殿中の生活は、こんなものでした。
 以上の話から、殿中に行った時の私の勤務が、かなりよくおわかりになったことであろう。
引用終わり
次回に続けます
posted by 小楠 at 08:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
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