2008年04月11日

将軍の小姓の身の上話1

維新の将軍慶喜に仕えた小姓1

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は徳川慶喜young14.jpg

引用開始
 殿中における一橋(徳川慶喜)の日常生活を一瞥することは、すべての読者に、特に興味のあることであろう。以下は、将軍の就任時から大坂退去に至るまでの間、小姓として勤めた一紳士が、私に書いてくれた一文だ。これは数年前、雑誌『ファー・イースト』にも載せたが、もう一度掲載する価値が十分あろう。

彼の登城、家茂の親切
 私は1853年(嘉永六年)越前の国の福井市の近くの村に生れた。父は同藩のサムライ、剣術の指南役として有名であり、この道では、私も幼少から、かなり上達していた。十歳で、私はある人の養子となり、京都に連れていかれた。その人は将軍家に勤めていた。
 家茂が京都に来た時、私の養父に、時折私を遊びに、城内に連れて来るように命じた。これが私の城中へのお目見えでした。私は将軍の小姓役を命じられたことはなかったが、しばらくの間、その役を勤めた。家茂の死去から幕府の崩壊までの期間に、私は外国人読者にとって、多分興味深いと思われる多くのことを見聞した。

 家茂が、1858年(安政五年)に前将軍の死後、将軍職に任ぜられた時、まだほんの青年だった。前将軍は、ペリー提督のもたらした米国大統領の親書を受け取ったのち、間もなく死去した。
 家茂は御三家の一つ、紀州候の子息であった。御三家とは、水戸、尾張、紀伊という将軍家の一族で、この三家だけから、将軍が選ばれる。家茂は、ミカドの妹で、非常に可愛らしい和宮(年は彼とほぼ同じ)と結婚した。
 私が始めて将軍にお目にかかったのは、1866年(慶応二年)だった。私の養父は御側御用人、すなわち、小姓の頭であった。これは、城内の全部署を監督すると同時に、将軍の身のまわりの世話や御老中の文書をすべて将軍に伝える役を含んだ職務であって、重要な仕事だった。当時はまた、全大名が毎年一定期間江戸居住を強制されていて、彼らが江戸に着くと、登城して将軍に祝賀の言葉を述べ、例外なく国許から持参した贈物を献上することになっていた。この身分の高い来客の案内をするのが、養父の仕事であって、もちろん非常に重く見られていた。
 私は江戸には行ったことはない。私が始めて京都の城――有名な二条城――に連れて行かれたのは、将軍が上京した時だった。


 私が登城したのは、将軍が、『会ってみたいから、連れて来るように』と、養父に命じた結果だった。当時十三歳位だった私は、大奥に通じる勝手口から入れられた。登城した時に経験した最初の感動を、決して私は忘れない。私は大勢の、若くて美しい侍女に出迎えられ、大奥にある御前に連れて行かれた。当時和宮は到着していなかった。
 家茂は少しも勿体ぶったところがなく、豪華なぬいとりのある絹蒲団に坐っていた。そのお部屋は、すべての他の部屋と同様に、家具は大してなかったが、子供の私の目には、すべてのものが富と権威として見えた。
 将軍は驚くほど穏やかで親切だったし、私を大層丁寧に扱って下さったので、私は命を捧げて仕え、決してお傍を離れまいと思ったほどだった。将軍は親しく私に話しかけ、私に満足したようだった。というのは、「好きな時に城中に来て、余と遊ぶように」といい、父にそのようにお命じになったからだ。このお招きは命令と考えられた。従わなければ、無礼であり、無作法となったであろう。私は何度も登城したが、いつでも将軍に会えたわけではない。例外なく、大奥で迎えられ、日本の慣習にしたがって、茶菓のもてなしを受けたが、将軍の御前では、そうではなかった。

 しばらくののち、家茂は長州藩との紛争のために同地へ赴かれた。将軍は安芸の国へ向って出発し、私は京都に残ったので、二度と将軍に会えなかった。というのは将軍は途中で病気になり、大坂に進み、そこで亡くなったからである。死ぬ前に、私は京都を離れ、江戸へ向った。江戸では、実父と兄弟が大層私に会いたがっていた。数カ月滞在したのち、私は京都に戻り、養父から将軍慶喜に紹介された。公は、外国人には一橋という名の方がよく知られており、日本人には「ケイキ」として有名であった。

 当時は、私は将軍についても、または将軍に話しかける時でも、名前をお呼びしなかった。もっとも普通に使われた言葉は「御前」であって、食物を意味する同じ言葉「御膳」とまったく同じ発音である。この時から、前将軍の住む二条城から四丁ばかり離れた若狭屋敷という御殿に、私はよく伺った。いよいよ私は、将軍の小姓の任務を教え込まれたが、正式に任命されたのではなく、実際に城内に自分の部署を持ったわけでもなかった。私の任務は、将軍の、また将軍からの伝言をすべて伝えること、お茶(お茶は必須の作法だが、熟練の域に達する者はほとんどない)をたてて、差上げることであって、一般に五十人の小姓と交替で、勤仕することだった。

 私が始めて将軍にお目通りの光栄に浴した時は、私と同年輩の友人が一緒だった。私は以前と同様に、大奥に連れて行かれた、そこには将軍が坐っていた。驚いたことに、また喜んだことには、将軍はお手ずから、私に酒をついでくれた。十人ばかりの侍女が同席していたが、他の侍女はめいめいの室にいた。みんな美しく上品な顔をしており、二条城以外で、私がこれまでに見た婦人とは、違っていた。・・・
引用終わり
次回に続けます
posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(1) | 書棚の中の日本
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犬山城
Excerpt: oojijisunです,青春18切符で行きます お城巡りを準備中です、参考になります。
Weblog: 青春18切符で行く,日本の「城」巡り60
Tracked: 2011-01-29 09:59