2006年10月03日

日華和平の妨害

 日本と蒋介石との和平を不都合に思っていたのがスターリンと中国共産党であることは、後の推移からも明確に分かることだと思います。ソ連は日華の和平により日本軍の対ソ防衛が強固になることを嫌い、中国共産党は蒋介石が後顧の憂い無く共産党討伐に出てくることを何としても阻止する必要がありました。
 日本軍と蒋介石軍の戦闘を画策し煽り、あげくに中共は今も侵略されたなどとは笑止千万。昔も今も共産主義は「嘘」無しでは成り立たないのでしょう。
「われ巣鴨に出頭せず」(近衛文麿と天皇)工藤美代子著より

引用開始
【盧溝橋から上海事変】
 東京裁判で証拠として提出された事件当時の北京市長で第二十九軍副隊長だった秦徳純の「七・七事変紀実」でさえも両軍のどちらが先に撃ったのかについては決め付けていない。そこからは、日中いずれでもない謎の第三者による射撃が行われた可能性が浮かんでくる。
 陸軍の皇道派はソ連とその国際共産主義を警戒し、対ソ国境には熱心でも、中国とことを構えたり南下する方針にはもとより反対していた。その皇道派が組織としての力を落としていたために、統制派がその間隙を縫って中国戦線を拡大し事件を起したのだろう、という見方が大勢を占めていた。
 近衛もそう理解して自らに最終責任があると、己を責めたのではないか。この時代の我が国の情報戦力からみれば致し方もなかったろう。・・・・

 日本軍はこの後、総攻撃を開始して七月までに北京、天津など華北一帯を制圧した。近衛が杉山に命じた不拡大、事態収拾とは裏腹な進展を現地は示し始めていた。
 だか、この時点で日本軍は華北以外に戦線を拡大する考えは持っていなかったので、この時期としては画期的とも思われるほど陸軍、海軍、外務省が一体となって和平案を練っていた。少なくとも日本軍も蒋介石も、まだ全面戦争突入だけは避けるつもりがあったのだ。
 近衛は、蒋介石と直接ひざ詰め談判をする策を講じ、宮崎龍介を蒋介石の元に送って取り次がせることにした。宮崎龍介というのは、かつて孫文と黄興を会わせて辛亥革命にひと役買った宮崎滔天の息子で、こういう仕事にはうってつけだった。ところがその宮崎が神戸で船に乗る寸前、憲兵に逮捕されこの計画が頓挫してしまった。
 杉山陸相が事前に了解しながら自ら憲兵を使って妨害したというので、近衛も怒りが収まらず杉山に問いただしたものの、返答はいっこうに要領を得なかった。このころ、近衛は天皇に呼ばれご下問を受けた。
「もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」
 仰せの通り、近衛は今述べた陸海外務の力を合わせた和平案を提示しようと既に準備を進めていた。
 それは、土肥原賢二・秦徳純協定、及び梅津美治郎・何応欽協定などこれまで日本に有利だった軍事協定を見直し、大幅に日本が譲歩する案を示すものだった。この提案は満洲事変で得た日本の既得権をほとんど放棄するほど、国民政府に有利なものを用意していた。
 だが、この案が実を結ぼうとした矢先、またもや不可解な事件が「偶発的」に起きたのである。

 日中間でこの外交交渉が開始された八月九日、上海で海軍中尉大山勇夫の乗った車が銃撃され、運転手ともども殺害されるという事件が起きた。
 車の外には中国軍が自分の手で撃った中国人の死体が転がっており、これを大山が撃ったために反撃したかのような細工がしてあった。
 これでは外交交渉はやれない。遂に八月十三日、両軍戦火を交えた上海事変となったのである。明らかに蒋介石側の兵が仕掛けたマッチポンプで開始された戦争だが、この自作自演をした人物が本当に蒋介石の命を受けた者なのかどうかは不明である。

 またもや起きた奇怪な「偶発的」事件を巡ってはさまざまな憶測がなされたが、現在までで最も有力と思われる史料は先にも紹介したユン・チアン、ジョン・ハリデイの調査による『マオ』である。
 二人の調査によれば、またたく間に華北を占領した日本軍を見ていたスターリンは日本に脅威を感じた。そこで上海で全面戦争を勃発させて、日本を南下させておく手を打った。この裏では周恩来もひと役かっている。かねてより極秘に中国共産党入りを志願していた国民党軍南京・上海防衛隊司令官の張治中将軍をそのままスパイとして蒋介石の傍に置き、工作運動をさせていたというのだ。
 この調査報告が真実であれば、これまでの昭和史はすべて書き変えられねばならなくなるほど迫力に満ちたものだ。『マオ』によれば次のような驚くべき場面が展開される。

「八月九日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである。さらに、一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。日本側が先に発砲したように見せかける工作である。

 日本側は事件を穏便に処理したいという意向を示したが、張治中は攻撃許可を求めて蒋介石を攻めたてた。蒋介石はこれを却下し、十三日朝、張治中に対して『一時の衝動に駆られて』戦争の口火を切ってはならない、いま一度あらゆる局面を『検討』した上で計画を提出するように、と命じた。翌日、張治中は、『本軍は本日午後五時をもって敵に対する攻撃を開始する決意なり。計画は次の通り・・・・』と、蒋介石に迫った。
 十四日、中国軍機が日本の旗艦『出雲』を爆撃し、さらに日本海軍陸船隊および地上に駐機していた海軍航空機にも爆撃を行った。張治中は総攻撃を命じた。しかし、蒋介石は『今夜は攻撃を行ってはならない。命令を待て』と張を制した。

 待てども命令が来ないのを見た張治中は、翌日、蒋介石を出し抜いて、日本の戦艦が上海を砲撃し日本軍が中国人に対する攻撃を始めた、と、虚偽の記者発表を行った。反日感情が高まり、蒋介石は追いつめられた。翌八月十六日、蒋介石はようやく『翌朝払暁を期して総攻撃をおこなう』と命令を出した」

 盧溝橋をでっち上げ、近衛内閣の不拡大方針と蒋介石の慎重論を手玉にとって戦火を拡大し両者を戦わせたのは、誰あろうスターリン指揮下のコミンテルンだったとすれば、神をも欺くもので石原(莞爾)とて想像もできなかった。生き残りを賭けていた毛沢東の高笑いが聞こえる。今こそユン・チアン調査の精度をさらに上げる史料発掘が望まれるのだ。
引用終わり。

 当時の日本が、中国大陸ではスターリンとコミンテルンに嵌められ、太平洋ではアメリカが英国支援のために欧州の戦争に参入するための口実作りに利用されたと考えると、日本が哀れになってくると同時に、その日本を貶める日本人には憤りを感じます。日本に巣食う反日、左翼を一日も早く駆逐したいものです。
posted by 小楠 at 07:22| Comment(5) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物
この記事へのコメント
日本も蒋介石軍も末端をコントロールできていなかったのは事実でしょうが、それよりも挑発行為を続け、それを指示・支援していた共産主義コミンテルンの罪悪についての話が日本であまりなされていない現状が不思議でなりませんね。アメリカでさえコミンテルンが暗躍していたようですし。

ソ連が崩壊した今、もっとこの話が表に出てきて良いハズ、とずっと感じています。
Posted by j.seagull at 2006年10月03日 16:16
j.seagull 様
>>共産主義コミンテルンの罪悪についての話が日本であまりなされていない現状が不思議でなりませんね。

これは日本で国民の常識になるくらいに強く絶えず訴える必要がありますね。
当時、たまたまソ連が勝ち組に属していたのと、ナチスの犯罪があまりにも強烈なのとが重なって、共産主義のナチスとは桁違いの犯罪が隠蔽されてしまったまま、今まで続いているようですね。
以前に欧州委員会で、当時の共産主義の犯罪を告訴するような動きがあったようですが、その後どうなったのか。
Posted by 小楠 at 2006年10月03日 17:49
本が、今日届きました。
しばしお時間をくだされ(礼)。
Posted by おしょう at 2006年10月03日 19:30
このようなブログを主催されている方たちに敬意を評するものです。月並みですがこれからも頑張ってください。
願わくばあと一回り文字が大きければと。なにせ眼がいけませんので。
Posted by タカハシ駱駝 at 2006年10月03日 19:44
おしょう様
>>本が、今日届きました。
もう届きましたか、お薦めした価値があると思っていただければいいのですが。また記事が楽しみですねー。

タカハシ駱駝様
>>あと一回り文字が大きければと

コメント有難うございます。やりがいがあります。文字の件済みませんでした。
やはり読んで頂ける方に読みやすくしたいので、
今一回り大きくして見ましたが、これでどうでしょう。
Posted by 小楠 at 2006年10月03日 21:23
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