今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真はヘボン博士

引用開始
「宣教師は外国交際の害毒となっている」と、常にある人々は強調してきたし、たぶん今後もそう主張し続けるだろう。その主張とはこうだ、「中国人と日本人とが外国人に示している憎しみは、すべては宣教師に対する嫌悪に由来している。したがって外国人と日本人の間に友情を拡める最善策は、宣教師を一人残らず、どんな名目でもよいから、船に乗せて送り帰してしまい、日本人の宗教に干渉しないことだ」と。幸に、これはすべての人の意見ではないし、多数の意見でもないと思う。これは、極めて誤った意見だ、と私は確信する。
宣教師が有益であるか、どうかという一般問題に立ち入るつもりはない。教団内の個人個人の宣教師が、日本人の間で果した善事については、多くの実例が挙げられやすい。だが、若干の宣教師の労苦が、中国と日本の双方において、信者以外の同胞に与えた恩恵まで、疑う人はあるまい。
神奈川が開港すると、真っ先に日本に来た人々の中に、家族連れの二人の宣教師がいた。S・R・ブラウン氏とヘボン博士だ。二人は神奈川で、アメリカ領事館からほど遠からぬ寺を住居とし、数年間ずっと住んでいた。二人とも長い間中国で主(キリスト)の教えのために働いていた。ブラウン氏は、その間弟子を持ったが、そのうちの数人は今、中国を西洋文明の方向へ進ませるのに、非常に熱心な働き手となっている。
ヘボン博士は医者で宣教師だった。その奉仕は、特に価値のある部類のものだ。というのは、その医術はすぐれており、苦しんでいる多くの長い病気の患者を救うことが出来るという理由から、他の者には出来ないことまで許されていたからだ。
ブラウンの『日英対話』
二人とも日本に来た時、有利なことに、中国語に通じていた。二人は早速この利点を活用した。これは大いに日本語の学習に役立った。1863年という早い時期に、ブラウン氏(今は博士)は、日本語会話の文法書を出版した。この本は、日本語で正確に日本人と話すことを学ぼうとする多くの外国人に、非常に役立った。
日本語には、特有の難しさが多い。文章の言葉と会話の差異が大きい。紳士の言葉と、私が「俗語」と呼んでいる言葉(これは庶民の言葉という意味だが)とは、これまた相違が著しい。男と女とは、別々の言葉を使う。だから、日本語を少しでも知っている者なら誰でも、話し手が日本語を女の言葉から学んだか、それとも召使いからか、紳士からか、あるいは大げさな古典学者の会話から学んだかを、すぐに簡単にいい当てることが出来る。外国人の中にはわずか、ごくわずかではあるが、日本人同様に自然に、こうした別々の話し方を全部使い分ける者がいる。だが、一番日常の用事に役立たせにくいのは、最後にあげた、あの高尚で非常に正確ではあるが、無学の者には、ほとんど理解出来ない古典的な日本語だ。ブラウン博士の本は、もっぱら会話体を取り扱い、したがって非常に実用的なものとして評価された。
ヘボンの『和英語林集成』
ところが、1867年の夏、ヘボン博士が一冊の本を著した。それは、来日以来、注意深く研究心を集中して来たもので、日本人にとっても、外国人にとっても、これ以上に有益なものはないほどの仕事だった。『ヘボン辞書』(『和英語林集成』)は、日本語を、ローマ字と片仮名と漢字で記していたので、日本語を学ぼうとする外国人にも、英語を学ぼうとする日本人にも、最大の助けとなった。さらにその両方の学習者を増すことにもなった。
この本の編集にあたって、もちろんヘボン博士は有能な一日本人の助けを借りた。本書の売行きが、一番楽観的な予想をも、たちまち実現してしまった、ということを聞くのは、喜ばしいことだ。今日にいたるまで、これほど包括的な本が出版されたことはない。
もしアメリカが、日本に関して行ったことで、「信頼に値する」と主張するものがあるとすれば、ペリー、またはハリスがそれぞれの条約を結ぶために果した仕事ではない。この条約は、もっぱら日本の支配者の恐怖心を利用して、かちとったことは、すでに述べたところだ。そしてこの事実は、二人から一切の光輝を取り去っている。
だが「是非とも」というのであれば、アメリカの光栄は、国民の一人ヘボンが、誰にも増して日本人に知識の門戸を開き、そして遠い国から日本へ来た人々に日本語を修得しやすくした、という事実に認められよう。
引用終わり