2008年04月09日

将軍と外国人との交際

将軍自身が日本人と外国人の楽しい交際を始めた人

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
young12.jpg
写真はハリー・パークス

引用開始
 5月2日(1867)、パークス卿とその随員は、将軍との私的な会見を許された。会見の終わりに、騎馬護衛隊は将軍の前で、分列式を行い、アプリン大尉の指揮で、演習を見せた、これは将軍を大層喜ばせたようだ。
 ついで英国公使と随員は、大晩餐の用意された部屋に案内された。晩餐はフランス風の料理で提供され、皿やグラスはすべて最高のヨーロッパ製品であった。将軍自身が主人役をつとめた。彼が上座につき、右手にパークス卿が坐った。
 食事の後、デザートがテーブルに出され、将軍は英国の女王と、ついで公使の健康のために乾杯を提案した。この二つの乾杯に対して、パークス卿が答礼の乾杯をした。一行が席を立つと、別棟に会場を移し、コーヒーが供された。将軍の役人が、将軍の贈物を持って来た。

 翌日は、オランダ公使が、将軍と私的会見を行った。あらゆる点で、英国公使の場合と同様だった。数日後、米国公使が到着すると、彼も同じように招かれた。最後にレオン・ロッシュ閣下が将軍の歓待を受けた――その際には、ゲリエール号の軍楽隊が参列した。
 私的会見の数日後に、同じ順序で、公式の会見が行われた。
 公式会見では、日本側役人は殿中の正装で出席した――床の上に長く、後方に引きずる長袴、上衣には、着用者自身と将軍の紋が前側に刺繍してあった。頭には、奇妙な小さい黒い帽子をかぶっていた。
 公使団が城に着くと、外国事務総裁に迎えられ、将軍の前に導かれた。一行は将軍にうやうやしく頭を下げて、一言、二言挨拶した。これに対して、将軍は起立して挨拶を受け、適切な言葉で答礼した。
 ついで一行は、老中筆頭の板倉伊賀守によって別室へ案内され、将軍家の紋を縫い取りした豪華な殿中用装束を贈られた。将軍は、前側に朱色で紋を縫い取りした袖のついている非常に豪華な白絹の召物を着けていた――そして幅の広い袴をはき、小さい黒帽子をかぶり、腰にはみごとな刀を差し、もう一本は脇の刀架にかけてあった。
 私的会見の際には、部屋はすべてヨーロッパの一流のぜいたく品で飾ってあった。床には、豪華なブラッセル絨毯を敷き、壁には、花鳥の描かれている金箔紙が張ってあった。


 公式会見では、一切が日本ふうであった。床には、たたみが敷いてあった。天井には、紋章や花などが美しく彫刻されたり、飾りがほどこしてあった。これらもまた堂々としていた。
将軍は中背で、気持ちのよい、非常に知的な顔をしていた。眼はよく輝き、声は非常にやさしかった。物腰には屈託がなく洗練されていた。彼がヨーロッパふうの晩餐の席についたのは、今回が始めてであった。将軍家の紋章を着用しない日本人は、誰も将軍の前に出ることは許されないので、すべての段取りや給仕は、側近が取りしきらねばならなかった。
 公使団は、公式と私的の両会見のどれにも、大いに満足した。滞在期間は主として老中との間の協議に費やされた。英国公使の護衛として同行した第九連帯の四十名は、将軍の前で銃剣術その他の訓練を行った。フランス陸戦隊もまた、将軍の前で訓練を行い、将軍は大いに満足の意を示した。
 英国測量船サーペント号のサットン氏は、将軍をモデルに写真を撮る光栄を与えられ、実にすばらしい撮影をした。この写真は小さなものである。というのは不幸なことに大きなレンズや化学薬品をのせたボートが転覆し、なくなってしまったからである。

 公使団の大坂滞在中、一行の夕食、朝食は将軍の費用で、フランス人料理人の監督のもとに提供された。あらゆるぜいたく品が供された。一言でいえば、一切のことが、出来る限り気前よく、運ばれた。会見の時には、各公使館から城までの全行程(約二マイル)の町の両側に、エンフィールド銃で武装した部隊が並び、各公使が通る時、捧げ銃をした。城内の庭や廊下にも、軍隊が並んでいた。
 この記事を読めば、現在、日本高官と外国人との気持のよい交際が、ほかならぬ将軍自身によって始められたことがわかるであろう。私は、このことを特に読者に強調したい。
 この理由は容易におわかりいただけるだろう。つまり、事実を知らないで、現制度(明治政府)が創始したと思い込んで、今日の進歩を賞めるだけで、旧制度の支配者の悪口を言う人達の誤った考えを訂正したいのである。
 私はこの意見を常に主張していたし、今でも持っているが、もし一橋が思う通りに計画を遂行することが出来たとすれば、今日までに、今われわれが見ていると全く同じ大進歩が見られたことであろう。そして、その進歩は、今のよりも健全で、確実なものであったろう。血なまぐさい革命もなかったろうし、ミカドは全権力を回復していたであろう。このことは、すでに慶喜の計画の一部として、報じられていた。今よりずっと前に、衆議院も開かれていただろう。そしてこの国は、1868年(明治元年)の内乱と台湾征討に費やした莫大な費用を課せられることもなかったろうから、これまで経験し、現在も経験中で、しかも今後も増加してゆくあらゆる財政難も起らなかったであろう。佐賀の乱も西南の役もなかったはずだ。・・・
引用終わり
posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/13783321
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック