2008年04月08日

将軍職を固辞した一橋

一橋(慶喜)は将軍職を受けたがらなかった

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は薩摩藩の武士たちF・ベアト写真集より
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引用開始
 一橋は主権を握ることを固辞した。誰も、彼以上に、はっきりと自分が遭遇しなければならない難局を見通してはいなかった。そこで彼はミカドに対して、「将軍職を免じるか、さもなければ、全面的な信頼を与える、いつでも自由に会見する、さらに内政同様、外国人との条約維持についても自分を支持する、また職務に忠実でなかったり、無視したりするという馬鹿げた報告がミカドのもとに届くかもしれないが、それに耳を貸さない」ことなどを懇請した。
 彼はさらに、「征長戦は、有利な結果にはならないようだし、おそらくは同様の政策へ他の大名の心をかりたてる傾向にあるから、これを中止すべきだ」と提議した。ミカドは、「すべて一橋の望むままにし、彼を全面的に支持しよう」と約束した。

 しかし諸大名からの猛反対が懸念された。最近まで、一橋と薩摩は非常に仲が良く、ともにこの国で改革を行いたいと望んでいる、という話だった。こういう二人の人物が、この目的のために一緒に働けば、かならず良い方に大影響があるというのが、一般の意見だった。ところが、しばらく後で、一橋は、薩摩が目指しているのは、単に政治改革ばかりでなく、将軍家の交替であることに気がついた。かくて、両者の間は冷たくなった。
 しかし、薩摩はまだ数ある大名のうちの一人にすぎなかった。一橋は、数人の大名が最近の数年間取って来たやり方を続けたのでは、政治をうまく運ぶことが出来ないことを、よく知っていた。そこで大名会議が大坂で開かれた。この会議には、最も重要で、有力な大名の多数が出席した。島津三郎も含まれていて(松平大隈守という新しい称号で)、薩摩代表として出席した。新将軍も出席し、自ら議事を始めた。
 将軍は始めに「自分が選ばれ、信任された職を受諾するのはいやだ」と素直に述べた。また、「この地位は諸侯の積極的な協力がなければ、守ることが出来ない。公然とした敵意と不満の徴候が現れたならば、ただちにこの職を捨てるに躊躇しない」と。同時に、自分を支持するために、どんな手段を諸侯に求めているか、ということを知らせるために、彼は次のことを明らかにした。すなわち、「将軍として、自分は、正統であり、また責任のある幕府の統治者としての自分に対し、諸侯の助力と忠誠を期待する、さらにその意見を自分に聞かせたい時にはいつでも、ミカドに次いで国家の元首であり、徳川家創設者の権現様の正統に選ばれ、承認された後継者に対するものとして、尊重出来る、礼儀にかなった手続きをふんで、知らせてもらいたい」と。

 長州問題に関しては、出来るだけ早く、自分の権限内での出来る限りの条件で、解決したいというのが、彼の意向であった。これは後には、日本の軍事力の全部を、一つの有効な正規軍に統合しようという目的があってのことだ。
 外国条約については、前任者達が合法的で、熟慮したのちに締結したもの、と彼は考えていた。したがって日本人が外国人と同様に、条約上の義務を喜んで実行する決心であることを、外国人に対して明かにする義務を、彼は自分自身が、またひろく国全体が負うものと考えた。・・

一橋は同情に値する
 この会合から、最良の結果が予想された。この後に起ったすべての事件をわれわれが回顧する時、われわれは一橋に対して強い同情を禁じえない。彼が、水戸候の愛息であったことが思い出されよう。
 水戸候は外国人との交際に最大の敵意を示していたし、幕府反対派のもっとも積極的な発頭人であった。実際に彼は一橋候の世嗣として、養子となっていたが、極めて過激な意見を持つ大名の実子なので、彼が人生に乗り出した時には、同じ意見を持っていた、と考えられるかもしれない。
 今日、時として、彼は遅鈍であり、後には臆病でさえあった、という不利な申し立てを受けている。しかし私が今述べたように、「必要な支持が得られなければ、辞任する」と、彼ははっきり述べていた。

 もともと彼は消極的でも、臆病でもなかったことは、彼が、他の者全部の中から、若い将軍(家定)の後見役に選ばれたという事実から推測できよう。この地位にあって、条約締結が正しかろうと間違っていようと、また将軍家定、もしくはその代理の大老に条約を結ぶ権限が合法的にあろうとなかろうと、その行為は実行されたのであり、条約は守られねばならないという、この正しい事実を、彼がただちに認識したことは明白である。
 われわれは、条約勅許を得るにあたって、彼がいかに卓越した役割を果したかを見て来た。最後まで、日本に課された協定に対して、彼は極めて誠実であった。現(明治)政府がしたといわれている改革を、彼は創始した。そして政府を現在の形にすることに、どんな利点があるにせよ――明らかに利点は多い――彼はそれを予想し、「漸次それを遂行したい」という希望を明らかにしていた。
 もし彼が望むとおりに活動することが出来たならば、後に起ったような革命の惨禍や、度重なる内乱の勃発もなく、これまでなし遂げて来た程度の急速の進歩を、日本が行ったことであったろうというのが、私の確信である。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
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