2008年04月07日

維新前の宇和島訪問

維新前の宇和島から富士登山

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は横浜の茶屋F・ベアト写真集より
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引用開始
 「1866年8月2日(木曜日)薩摩藩主の二番目の弟が乗艦してきて、写真を撮ってもらった。午後には、プリンセス・ローヤル号は、十五発の礼砲を受けて、鹿児島を去った。
 ついで航路を宇和島にとった。提督は、その港で、ハリー・パークス卿と落ち合うつもりであった。(伊達)遠江守が特に彼らを招待していた。
 宇和島は、海図では間違ってクガマと記入されていたが、ここには、速くて愉快な航海の後到着した。二人の利口な日本人水先案内が、すぐわれわれを港内へ向う水路に案内してくれた。
 この土地については、乗艦者はみんな、大きな興味を見せていた。この予期は失望に終らなかった。長崎の美しい港を見て喜んだ者ならば、宇和島もある程度想像がつくというものだ。というのは、四方八方にそそり立つ険しい緑の丘と、港内に碇を下ろす船が安全だという点で、この二つの港は非常に似ている。
 しかし宇和島の方が、ところどころ、小川があったり、入江になっていて、長崎よりも変化に富んでいる。蒸気をたいて入りながら、われわれはみな、この美しさを喜んだ。町と居城が高い連山の下に見え隠れしている側では、特にそうであった。

 8月4日(土曜日)、午後五時、われわれは碇を下ろした。伊達遠江守の家臣が乗艦して来た。翌日には、藩主とその兄が六人ほどの家来を連れて、公式訪問ではなく、おしのびで来た。この兄は前の藩主だったが、将軍に反対した結果、弟のために辞職するように命ぜられたことを説明しておく必要がある。しかしながら彼が実権を握る人物で、弟の同意を得ていることは明らかだ。
 この日彼らは艦上で七時間ばかり過ごした、彼らは大変興味を持ち、帰るのを残念がるほどだった。この人達が、単に日本の学問に通暁しているばかりでなく外国の学問にも通じていると知って、われわれはいくぶん驚いた。例えば、ウォーターローの戦いといった話題で、話が出来たのである。

 8月7日(火曜日)、三十人ばかりの日本の婦人達が軍艦を訪問した。見たところ彼女達はすこぶる喜んでいたようだ。
 同日午後四時、陸戦隊は上陸して、大名の前で閲兵をした。この演習が終ると、われわれは、約四十名の藩士達が訓練をするのを見たが、その訓練の正確さと規律正しさは、実に驚くべきものであった。銃剣術はかなり薩摩の者を驚かせたが、ここの者達は、わが陸戦隊員と同じくらい上手にやった。
 最も興味深い光景の一つは、パークス卿夫妻のために開かれた宴会で、提督と士官数人が列席した。いっさいが日本式に行われた。これに妙味を加えたことは、藩主の娘や貴婦人が紹介されたことだ。
 午後のうちに、二人の藩主の父が入って来た。一人の婦人が彼の大刀を彼の前に持って来た。彼はウィリスとトムズの両医師に、自分の病気を診て欲しいと頼んだ。二人は、老年であることが病の原因だと診断した。彼は七十五歳くらいであった。
 夜に入ると、みごとな日本の剣道やら、音楽、歌、舞いがあった。余興はすべて、物珍しく、楽しかった。
 居城を出ると、長い行列をした人々がたくさんのあかりを持っていて、われわれをボートまで案内するようになっていた。これは実に絵のような効果をあげていた。
 遠江候が、われわれに友情と歓待の気持を示そうとしていることは、極めて明らかであった。そして彼は藩民に熱烈に支持されていた。この人々は、われわれが通りを通っていく時、果物や菓子を差し出した。
 11日(土曜日)、軍艦は宇和島をたって横浜へ向った」。

富士登山
 日本の類まれな山、富士山の外国人の登山は、今ではごくありふれたことで、ほとんど話すほどのこともない。
 ラザフォード・オールコック卿は、女王の代理として、国内旅行の権利を行使して、1860年に富士山を訪れた。しかしそれ以来六年の期間中に、登山の許可を得ようとする試みは、成功しなかった。試みたとしても、おそらく許可されなかったろうし、この六年間は、あまりにも危険だったろう。
 しかし、今はそうではない。8月20日、ヨーロッパ人の一団が登山し、頂上の小屋で一夜を過ごした。一行はちょうど八日間横浜を留守にした。もちろん、かなりの条約圏外の旅行であった。帰って来ると、自分達の旅行と、あらゆる階級の日本人が親切で礼儀正しかったことを、非常にほめそやして話した。そしてこの事件は、日本人と外国人の関係を改善するものだ、とほのめかした。というのは、今度の場合、幕府の許可を申請した時、なんら異議を示さなかったからだ。これに反して、ラザフォード・オールコック卿が富士山を訪れようとした時には、卿に権利があるにもかかわらず、相当な反対が唱えられていた。

ナポレオン帝政の影響
 ド・ヌムール公爵の息子でダランソン公爵がこの時期に日本を訪問し、江戸の英国公使館で、パークス卿の客となった。オルレアン家の人であったため、私的な場合を除いては、彼はフランス公使から接待を受けなかった。
注: フランスは当時ナポレオン三世の帝政であるため、ブルボン王家の一族であるオルレアン家を冷遇していた。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
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