2008年04月05日

維新前の薩摩訪問

パークス卿とキング提督の薩摩候訪問

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は下関前田砲台を占拠したイギリス軍F・ベアト写真集より
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引用開始
 この訪問に関係の記事は、プリンセス・ローヤル号に乗艦していた一士官が、横浜に到着した際に、私によこしたものだ。
「1866年7月27日、太陽は晴れた空に輝き、海は穏やかで美しかった。この日、英艦プリンセス・ローヤル号は、サーペント号とサラミス号を率い、蒸気をたてて、鹿児島港に入っていった。海は荒れ、風は激しく、左右の厳然たる砲台から砲弾の雨が降ったあの時(鹿児島戦争)に、この湾にいた者もいく人かいた。今ではその砲台は静まっていた、ただ一基の砲台を除いて。この砲台の砲手は提督旗に礼砲を発する準備をしていた。鹿児島戦争の時の戦闘のための訪問と、今回の友好訪問とを、われわれは比較せざるをえなかった。今回の訪問は、薩摩候松平修理大夫が長崎にいる出向役人を通して、ハリー・パークス卿に伝えた招待によるものだった。

 正午少し過ぎ、堂々たる順序で、三隻の軍艦は、蒸気をたてて港に入った。碇が下ろされると、町近くの砲台が、十五発の礼砲をゆっくりと、しかしみごとに間をおいて発した。プリンセス・ローヤル号も礼砲を返した。サラミス号に乗艦していたのは、パークス卿夫妻、ウィリス博士、アプリン大尉であった。プリンセス・ローヤル号には、シーボルト、ローダー、T・B・グラバー氏、堀という日本人通訳が乗っていた。
 薩摩の首席家老や、その他の役人が乗艦して来て、日本の紳士に特有の、上品で丁寧な物腰で敬意を表した。彼らに、これからの行動の意味を説明したあとで、日本側の旗に対して、二十一発の礼砲が発射された。また砲台から礼砲が答えた。
 この日には、公式訪問はないことになっていたが、上陸して見物したいと望む士官には、午後には護衛がつくという準備がされた。午後四時、ハリー・パークス卿、提督と、多数の士官が上陸して、町を歩いた。これまで一人のヨーロッパ人も見たことのない当地の人々が、数千人も道の両側に並んだ、道の中央は役人によって、まったく整然と、あけられていた。
 非常に清潔で、所によっては、全く絵のように美しい町の中を通ってから、一行はあるお寺に着いた。
そこには果物、菓子、シャンパン、酒、ビールなどのもてなしの品が用意してあり、口のかわいた客達に丁重にすすめられた。


 翌7月28日若い藩主が立派な屋形船でプリンセス・ローヤル号に来た。キング提督とその儀仗兵が彼を迎え、船尾に案内して、十九発の礼砲で歓迎した。
 公使と提督の祝辞を受けこたえする間の、彼のゆったりとした身のこなしは特にすぐれていた。彼は昨日乗艦して来た人々と新納という高官を従えていた。新納は、堀と一緒に、イギリス、及び他のヨーロッパの主要な国をいくつか訪問したことがある。
 午後には、公使と提督は多数の人員を率いて、答礼の訪問をし、藩主と食事をした。この饗応では、四十種の料理が出た。イギリスのビール、日本や外国産の酒がつき、五時間も続いた。
 午後の間、砲台の一つで、標的射撃の演習が行われ、時にうまく命中したのが、いくつかあった。

 7月30日(月曜日)、藩主と五人の兄弟が標的射撃を見に乗艦して来た。近衛陸戦隊の砲兵の操作などで、百ポンド砲の一弾は、八百ヤード離れた大きな標的の内側で爆発した。同じ大砲からの他の二発と、他の大砲からの二発も同じ標的に命中した。そのあと、訪問者達は艦上を歩きまわり、興味を持って武器や機械類を調べた。

 31日の朝、激しい雷のあらしが通過して、大気を冷やし、この地方一帯をすがすがしくした。午後四時、近衛陸戦隊の軽歩兵隊長サンダース大佐の指揮の下に、百五十名の陸戦隊と二門の野砲が、藩主の居城に近い地点に上陸した。その地面の準備は巧みに出来ていた。立派な観覧席が藩主の一家、家老、その他主だった人達のために設けられ、列席するかも知れない役人達のためにも、別席がその近くに設けられていた。藩主用の天幕の端には、それぞれ二本の結び目のついた綱がついていたが、これは、日本の身分の低い生まれ、かつては猟師の社会にすぎなかったことを象徴するものだった。

 まもなく藩主一家が現れた。その先頭に立ったのは、聡明で毅然とした顔つきの、かなり背の低い、年配の人物であった。これが先代藩主の弟で、評判の高い、現藩主の父島津三郎だ。
 ハリー御夫妻は、幕僚を連れて、やがて到着し、演習が開始された。大砲を砲車から降ろす作業が、何よりも藩主の注意をひいたようだ。また飲食物も用意してあり、所望する者にふるまわれた。すべては順調に運んだ。・・・・
 居城のまわりの庭は、狭いが、非常に趣味がよかった。背後は、小高い丘で、その前面には木陰の多い散歩道が数マイル続いていた。それは日陰の多い林で、苔が敷物のように蔽い、端にはシダの生えた道、そしてその近くを、ほとばしり、泡をたてて流れる澄んだ小川がたえまない音楽をかなでていた。この小川はやがて下の庭園に入って、素晴らしい小滝となり、人工の川となり、魚の遊ぶ池を作り、最後に、庭園の境界のすぐ外の稲田の水車をまわして、美観に加えて、実用をもそなえていた
 居城の敷地に隣接して、鋳造所がある。――極めて興味深い場所だ。ここで日本人は、ヨーロッパ人の助けを借りないで、大砲、弾丸、薬莢を鋳造し、蒸気で回転する旋盤を動かしている。その構内を横切っていくと、ガラス工場がある。そして日本人があらゆる種類の瓶や、ガラス装飾品を吹いたり、切断していた。そのいくつかは、かなりの技巧を要するものだ。確かに、この人達のなかには、将来工業界において大をなす萌芽があるし、またその作品の多くは、今でも、国際展示会において、注目に値するであろう。・・・・
 この訪問者達に対して、藩主一家のみならず、人民の示したねんごろな感情にまさるものはないであろう」。
し引用終わり
posted by 小楠 at 07:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
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