2008年04月04日

日本人の国民性

維新当時に見た日本の国民性

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
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引用開始
 日本人は、他の性質にもまして、常に一つの特性――せんさく好きで有名だ。彼らは静かに外国人の家の中に入って来て、「部屋を見せてもらいたい」と頼む。これは必ずしも気持のいいことではないが、断る人はめったにいない。確かに、こんな機会にめぐまれた人々は、見たこと――部屋の大きさ、優美な家具、輝いた鏡、高価な皿、デラックスな寝室、すべてにゆきわたっている清潔と心地よさなど――をなんでも報告した。

 このようにして、次第に日本の紳士は自宅の中に一室は西洋式に設備する習慣を作り始めた――立派な畳の上の真ん中に、みごとな正方形の絨毯や毛布を敷いたり、絨毯の真ん中に豪華な織物をかけたテーブルをおき、そのまわりを椅子で囲んだり、障子一枚には少なくともガラス窓をはめ、時には部屋の壁に絵や鏡をかける。
 肉を食べ始め、好きだという者が多くなった。誰でも、いくらでも、シャンパンを飲み、このようにして、すっかりお気に召したところを見せた。
 だが、まだ公然と洋服を着て、歩く者はなかった。そんなことをするものは、確かにこっぴどく、やっつけられたろう。たが間もなく、彼らは心配なく洋服を着た。なるほど、種々さまざまではあったが、大なり小なり、前向きの動きが現れた。
 もう一つ目に付いたことを話そう。ヨーロッパの子供がよい肉屋の肉で育っている年になるまで、日本の子供は、まだ母親の乳を飲んでいるが、日本の大人は最近まで(現在でも多くの者は)、牛乳を嫌った。これは度し難い。外国人がこの国に出現して以来、いく年もたった後になって、やっとよい牛乳が外国人の日常の需要をみたすようになったにすぎない。手に入るわずかな牛乳も、ほとんどみなヨーロッパ人の肉屋の好意で売ってもらうわけで、その肉屋も、日本のよい牛を数頭飼っていて、おとくいに供給するために骨を折ったのである。


下関戦争以後に起った変化
 これまで書いて来たことが、今からほんの数年前に起ったことだ、とは信じられない。下関砲撃以来、わずか十五年しかたっていない、などということがあり得るだろうか。その戦いに参加した人々は、みなどこにいるだろうか。その直前のすべての交渉の主役たちは、どこにいるだろうか。ラザフォード・オールコック卿は、その後北京駐在の英国公使として、めざましかった。引退してからも、絶えず世間に顔を出し、中国や日本に有益な学界とか、なんらかの企画に関係している。1864年の同僚もまた引退生活に入り、もはやその消息を聞かない。だが将軍はどうなっているか。
 老中は? 長州候と息子は? 七卿は? 教育を受けるためにスコットランドに行った若者達は? そしてミカドはどうなのか? 浪人はどこに行ったか? 浪人を押さえるために雇われた警備兵達はどこに? 大名もどこに? 旗本は? われわれが危険な階級といい慣わしていた二本差しの家臣らは? 幕府、すなわち将軍の政府はどこに行ったか? 内裏―ミカドの宮廷はどこへ? 
 将軍はいない、老中もいない。長門の老候はおそらく死んだろう、というのは、噂を、絶えて聞かないからだ。その息子は、品川郊外の快適な洋館で貴族として住んでいる。七卿のうち、三条実美は太政大臣、すなわち総理大臣であり、1868年以来そうである。

 スコットランドに行った青年はいずれも、この国の重要な地位についている。主君に警告するため帰国した二人のうち――伊藤は内務大臣となり、井上聞多は外務大臣である。
 ミカドはもはや単なる主権者ではなく――統治している!
 浪人はもういない――彼らと警備者達は、商人の階級か、その他の産業の勤労者に吸収された。ごく少数の者が、今でも剣をぶらさげているか、軍務に従事している。
 大名は貴族の位を得て、官職を持たない紳士となっている。旗本ももはや地位も特権もない。ただ信望と能力に応じた地位にいる。
 二本差しの人々が、殺人的武器を捨ててから久しくなる。そして「危険な階級」は、過去の思い出として語られるにすぎない。
 幕府はあたかも存在しなかったようだ。そして京都で世にも珍しく神秘的な奥まった生活をしていた内裏は、東京の宮廷に移り、その活動と個人的な威光(特に皇后の威光)は、全国土に祝福を投げている。
 これほどの変化が、私がまだ扱わねばならない十五年間に起ったのだ。これらの変化が、どんなふうに行われたかが、これからの私の主題である。・・・・
 鹿児島砲撃の結果についてはすでに述べた。それが、薩摩藩の外国人に対する評価を改善させたことは明らかだ。同藩はただちに、軍事と貿易の両面にわたって、外国の機械類を入手する最善の方法に目を向けた。
 長州に対する下関戦争の結果は、同藩が内海に入ってくる艦船に対して、新しい攻撃が出来ないほど無力になったということが、具体的な事実として、外国人にわかっただけだ。この事実のほかには、同藩と外国人の相互認識をもたらしたものはなかったが、同藩にとって不幸なことに、幕府と紛争を起していたので、外国艦隊が退去しても、その紛争は終らなかった。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
この記事へのコメント
Posted by かず at 2008年04月14日 22:49
かず様
お知らせ有難うございます。
早速サインしてきました。
こうして世界中の署名を集めるのは素晴らしいですね。
Posted by 小楠 at 2008年04月15日 08:56
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