この本は、当時の日本の政界や欧米諸国との関係など、読み物としても大変面白い内容で、お薦めの本です。
この著者は、近衛文麿が一般に言われるような優柔不断とか気が弱いとかに対して、果たしてそれが本当だったのかどうかということをこの本で提起しているようです。原文のままでない部分もありますが、内容を引用してみます。

引用開始
近衛文麿は父篤麿と加賀前田家五女衍子の長男として出生しましたが、衍子は出産わずか八日目に亡くなり、篤麿は衍子の実妹の貞子を後妻として迎えます。
明治十七年、華族令が施行され父篤麿は公爵となります。伊藤博文の勧めにより明治十八年、オーストリア、ドイツなどへ遊学。出発間際になって衍子を迎え、遊学から帰国した翌年、明治二十四年に文麿が誕生した。
(篤麿は明治二十八年三月、学習院院長及び貴族院議長に就任しています)
篤麿は船で香港やシンガポール、インドを通過しながら、白人の横暴をその目で見た。後に文麿はそういう父の気概を日記に残している。
「父が洋行した明治十八年頃は、極端な欧米心酔時代が過ぎて、やや反動期に入っていた。・・・・ヨーロッパの勢力が東洋に段々侵入してくることに対して、日本は支那の領土保全をしようという、例えば大アジア主義というような思想がその根底にあった」
イギリスやロシアの中国進出に対して、篤麿はその領土を守るべく清国に再三の助言をし、とりわけロシアの満洲侵略の危険を説いたのだった。
日清戦争後の清国の老衰ぶりははなはだしく、欧米列強、ロシアの餌食になりつつあったのが篤麿には我慢ならなかった。彼の思考にあったのはこの清国を救わなければ、日本にも危険が迫るであろうということだった。そこで、明治三十一年、同志を募り東亜同文会という組織を自ら興し会長になった。
その後三十二年になると、清国で起きた義和団事件をきっかけにロシアが満洲を軍事占領下に置くようになった。当然、日露間の軋轢は大きくなり、篤麿はこうした事態に対処するため支那保全を大義とした国民同盟会という組織を作ってきた。・・・・・
日露関係が悪化する中、国論も割れていた。伊藤博文は対露宥和派の代表格で、日露同盟を結びたがっており、極力ロシアを刺激しないように努めていた。一方、桂太郎や山縣有朋はロシアを抑えるために英国との同盟を重視していた。・・・
これに対して近衛篤麿は対露強硬論を張り、清朝末期の幹部、袁世凱や張之洞といった一派と頻繁に連絡を取り合っていたが、明治三十七年の元旦、篤麿は病のため四十一歳で生涯を閉じてしまった。
日露戦争開戦はこの四十日後のことである。
中学時代の近衛文麿は、一面では明るく健康的な学生にみられていた部分もある。勉強もやるだけのことはやり、運動もよくこなしていたという。当時の学習院院長は乃木大将であった。
明治四十二年三月、近衛は学習院中等科を卒業した。十月の誕生日がくれば十八歳である。多くの学習院卒業生たちがそのまま高等科へ進む中で、近衛は入学試験を受けて第一高等学校文科に入学した。
もちろん学業を積む上での選択として一高を選んだのに違いないが、それだけではなさそうだ。近衛の中に華族への反発心が生じていたとみることもできる。思春期に多くの者が通る道ではあるが、社会の不平等や身分制度について近衛は敏感な年頃を迎えていた。この一高で同じクラスに入ってきたのが、山本有三と後藤隆之助である。
自決前夜の近衛に「東條のような、ぶざまなことのないようにしてもらいたい」「何故死んで行くのか、その理由をはっきり書き残してもらいたい」と決然と迫った二人はこの日から側にいた。・・・・
公爵の地位や華族制度そのものにまで疑問を投げかけるようになった近衛は、栄爵を拝辞して哲学を本気で専攻し、学者になろうと考えたりもしていた。
とりわけ周囲を困惑させたのは、宮中に関して彼が素直になれなかったところだった。それは明治四十三年七月八日のことである。
明治天皇が本郷の前田家へ行幸する運びとなった。前田家では光栄のきわみであり、送迎には前田家だけでなく姻戚関係にある近衛家としても参列するのが礼儀だった。近衛の実母、継母ともに前田家の出である。兄弟たちは皆揃って行ったが近衛だけが行かなかった。
近衛文麿と木戸孝一が初めて顔を合わせたのは、近衛が学習院初等科五年のときのことである。二年上の木戸が体をこわして、いわば落第し上へ上がれずに六年を二度やったのだ。そこで五年の近衛に近づいて二人は出会い、終戦までの長い友情を結ぶことになる。
一高を卒業した近衛は東京帝国大学哲学科に一旦入学したが、講義を受けてみるとどうもつまらなかった。元より社会科学方面に関心が深まっていた近衛は、京都帝大に入り直す腹を決めた。
かねてより京大の米田庄太郎や河上肇、西田幾太郎といった気鋭の教師に憧れていた近衛は、とにかく編入に成功した。・・・・
その足で近衛は、白川村の鶴井牧場にある原田熊雄の下宿に旅装を解いた。その下宿には原田の他に、木戸孝一、織田信恒、赤松小寅、板倉勝央、上田操といった顔が揃っていた。・・・・
やがて哲学科から法科に転じた近衛は、河上肇の影響を強く受けるようになっていた。
「マルクスを読めるようにならなくてはだめだ」と生徒たちに始終言っていた河上だが、極端に左傾していたとは思えない。哲学や文学の観念の中での傾斜に過ぎまい。・・・・
もう一人、近衛が心酔していたのが西田幾多郎である。西田は近衛より二十歳ほど年上で、多くの学生たちが影響を受けていた。・・・
引用終わり。
史実としての近衛家の先祖は、藤原鎌足(中臣鎌足)で、後に天智天皇となる中大兄皇子と共に、蘇我氏を討ち六四五年、大化の改新を行った。以来藤原氏は一貫して天皇家の重要な補佐役を執り行ってきたが、やがて国政補佐のために摂政関白が設けられるようになった。・・・
源頼朝になって摂家が独立した職となり、近衛、九條、鷹司、二條、一條の五摂家ができた。
近衛家は藤原直系ということから、これら五摂家の筆頭という地位に置かれてきた。
コメントは、あらためて読後に…。
この本、ノンフィクションですが、読み物としても記述が大変よく出来ていると思いました。
是非一読をお薦めします。
お互いに読後感を交換したいですね。