2008年04月01日

維新当時の日本の魅力

日本の魅力

今回ご紹介している「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は当時の長崎寺町F・ベアト写真集より
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引用開始
 この国の美しさと一般に健康な気候と、日本人の気持のよい誠実さとは(公然と敵意を示す者は別として)、強い誘因となっていた。すべてが珍しく、他国で見るものとは全く違っていて、強い好奇心を呼び起した。訪問者たちは、読んだり聞いたりした知識があって、どんなに大きな期待をかけていた場合でも、決して失望しなかった。現在でさえ、遠くから来る外国人は、この国土と人間とが気に入っている。
 この国土は、少なくともその一般的な特徴には、大した変化はないようだが、人間は、外国人と十分接触するようになったところではどこでも、特に開港場では、その身だしなみや態度が大変変って来た。

 一民族として、日本人はみな柔和で、礼儀正しく、かなりの独立心を持っている。この独立心は、外国人の無愛想で、ぞんざいな振舞いに触れ、刺戟されると、すぐに表面にあらわれた。彼らが外国人から親しみ――これは日本人同士の間の習慣とは全く違っていた――をもって扱われると、この独立心は一層強められた。私は日本に上陸した最初の夜、一つの光景を見て、驚いたことを忘れられない。長崎のことだった。独身の友人達の家で食事をした後、テーブルが片づけられ、みんなは夕方涼むために広いベランダに席を移した。しばらく坐って、しゃべっていたので、若い仲間には、拳闘をするか、木刀で一勝負するのが、時間つぶしには一番よかった。やがて給仕をした「ボーイ」達が来て、見物した。明らかにその楽しみに加わりたいようだった――この望みはすぐにみたされた。彼らの見せた技から判断して、すでに初心者でないことは明らかだった。最初彼らは主人に真向から立ち向かい、ついでお互いに取り組んだ。このような影響下にあっては確かにすべての身分的差別がすぐに消え失せた。

 しかし、いたるところで、外国人との交際の結果は、日本人の行状に害をおよぼしていた。始めて会った時、日本人の挨拶には明らかにへつらいがあったとしても、すぐに消えた。彼らの無邪気、素直な親切、むきだしだが不快でない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志は、われわれを気持よくした。一方婦人の美しい作法や陽気さには魅力があった。さらに通りがかりに休もうとする外国人はほとんど例外なく歓待され「おはよう」という気持ちのよい挨拶を受けた。この挨拶は、道で会う人、野良で働く人、あるいは村民からたえず受けるものだった。なぜなら、こういう人達は、外国人になんら敵意を示さないし、粗暴な振舞いや侮辱を加えて、怒らせることも、しなかった。

東海道の大変化、横浜・江戸間に鉄道敷設の結果
 現在、横浜・東京間には鉄道があり、旧道、すなわち有名な東海道はさびれている。しかし、昔は、なんという光景を呈していたことか!
歩行者、乗物(上流階級の乗り物)と供揃い、駕籠(下層階級用の竹で作った粗末な交通機関)、あらゆる種類の商品を運んで、江戸や東海道沿いの繁華な町村に出入りした荷馬、大名行列、大名よりは低い身分で、供をつれて旅をする資格のある者、男女、子供連れの徒歩の平民、これらの人々で、大変な賑わいだった。平民達は歩きやすいように、着物を端折り、大部分の者はかなり容易に旅していた。そして道ばたに数えきれないほど、たくさんの茶店や休憩所で、たびたび立ち止り、一杯のうすい茶を飲み、自分と同様に、ひと休みに立ち寄った者と、誰かれ構わずに、陽気にしゃべって、元気を取り戻していた。彼にとっては、道のりなど考えになかったようだった。好きなように時間をかけ、自分なりの速さで、行けさえすれば(大体できたのだが)、来る日も来る日も、一日中歩いた。時間の価値など全く念頭になかった。商取引の場合でさえ、ヨーロッパ商人の最大の当惑は、時間どおりに契約を実行させるのが難しいことであった。いや、不可能だったといった方がよいかも知れない。

1863年当時の東海道風景
 大勢の武士の行列が往復するのは、もっとも印象的な光景だった。この時は、家から外へ出る人は、どの方向に行こうと、必ず武士に出会った。また東海道でも、江戸市中でも、武士の方が平民よりも多いようであった。今話しているこの時代には、東海道や、江戸の主要道路の群衆は、ロンドンの一番賑やかな道路の群衆にも匹敵するぐらい多かったことを理解して頂きたい。それは、いやでもヨーロッパの封建時代にわれわれを連れ戻す。当時は、貴族や地主は、武装した供を連れないで外出することは、考えられなかった。これに加えて、そこには一種の古代を思わせる雰囲気があり、この光景に魅力を与えていた。古いオランダ人の著作家がずっと以前に、東海道について書いているが、その当時でさえ、われわれがいた時代とまさに同じだった。
 きれいな、砂利をしきつめた舗道が、人口の多い村を通り抜けていた。村と村の間は、ほんの少し離れているだけで、美しい老木が道路の両側に立っており、これが田んぼと道路の境であった。
 大名の江戸強制居住を終らせた布告は、こうしたすべてのことに終止符をうち、その後の事件は、東海道らしい外観を完全に一掃してしまった。

二世紀前にケムペルが描いた東海道の記事
ここで、ケムペルを引用して見よう。これを読めば、この国の状態が二百年間、かわらなかったことが理解されるだろう。さらに維新以前に日本に住んでいたわれわれは見たが、今後は似たものでも、二度と見られないないものを記録しておくのもよかろうと思う。
引用終わり
管理者より、『ここは以前に引用したページをご紹介します』。

posted by 小楠 at 07:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
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