2008年03月31日

日本の特色は清潔さ

清潔な日本人の生活

今回ご紹介している「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は当時の床屋。F・ベアト写真集より
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引用開始
 多分、住民の身体の清潔なことが、伝染病を防いでいたのだろう。というのは、毎日熱い湯に入浴をしない人はほとんどなかったし、少なくとも一日おきに入浴しない人はめったになかった。
 開港初期の日本における体験談を出版した人々は、江戸で目にとまった婦人の、人前でする行水の話をしている。・・・・さらに本書を書いている現在(1874年)から五年とさかのぼらない頃でも、こんな光景を居留地のすぐ近所で、毎晩通行人は見たし、見ている。私はこの光景を本村から山手へ通じる道の一つでも、また周りの村でも何度も見た。・・・

 1862年頃までの、またもっと後までの日本人町の一つの特徴は、公衆浴場(銭湯)がたくさんあったことだ。ここでは、男女が一緒に入浴していた。当時、ここに住んでいた数人の外国人が示したような世論の力によって、ようやく次第に改められた。横浜でなくなった後でも、江戸では数年続いた。しかし現在では、男女が多くの場合に、今なお一つの浴場を使用してはいるが、概して仕切りで分けられるようになった。中には何軒かは、男女の別が一層完全なものとなっている。
 ところが今日でも、ほとんどの浴場では、男が女の仕切りの中にまで入り、女客の求めに応じて、水をかけたり、あるいは身体を洗う手伝いを仕事としている(三助のこと――訳者)そんなことをしない浴場は、実際あったとしても、一軒位だ。・・・
 日本の農村生活の素朴さは、他国に見られるものと全く同じようだ。ヨーロッパと同様に、日本でも、多くは自給自足の生活である。村はたくさんあるが、村民たちはほとんど、分業をいとなむ程度には発達していない。というのは、仕事の規模が、大変小さいからだ。各村には、一種の雑貨屋があって、ごく普通の簡単な、安い必需品を買うことが出来るが、この店とて、少しばかりの土地を自分で耕している家がしばしば経営しており、供給する品物の多くは、この屋敷で用意する。
 村人のすることは、すべて極めて原始的だ。彼らは太陽とともに起きるか、時には日の出前に起き、すぐに労働を始める。大ざっぱではあるが、都合のつく時には、身づくろいをする。ある時は起きると、すぐするし、昼休みにも、ちょいちょいするが、夕方仕事の終った時も、よくする。どの農家にも風呂おけがあって、一日の仕事が終ると、その中で半ゆでになって、身体を洗い、生気を取り戻す。浴場の温度は、非常に高く、風呂から上がった者は、ほとんどアメリカ・インディアンのような赤色をしている。1872年(明治五年)に東京で布告が出された、それは銭湯は適温、すなわち血液の温度(白人の習慣では、入浴の温度は非常に低い――訳者)よりちょっと低目以上に、熱くしてはならない、というものだ。

 男は決して自分で髪をいじらない。いつでも近くに床屋があって、農民や農村労働者の頭は、資力相応に一週間に一度か、あるいはもっと少ない割で、床屋の手にかかれるようになっている。女についても、ほぼ同様だが、彼女達は毎日少しは手をふれねばならない。これとは別に、髪結さんの訪問を待ち受ける日があって、彼女達が定期的に来る前に、髪をおろし、よく洗っておく。化粧用品とみなされるものの二、三個もないのは、非常な貧乏人に違いない。金持の間では、化粧用品は、特に美しいものが、常に花嫁のためにととのえられ、嫁入道具の重要なものとなっている。

 何事も全くおおっぴらだから、貧しい人々、あるいは労働者階級の間では、普通の身づくろいは毎日見られる。もちろん彼らにとって、その化粧用品は数が少なく、ありふれた品だ。ヨーロッパ人の目には、まるでおもちゃのようだが、小さく、簡単であっても、ヨーロッパのひときわ勿体ぶった鏡台同様に、持主にとっては有用であり、大切なものと考えられている。引出しつきの小さな用ダンスで十分であり、付属品一切が入っている。
 鏡はよく磨いた金属の円盤であって、目的を十分果している。そして必要な時には、使えるようにわけなく組み立てられ、終ると、片づけられる。この簡単な使い方は、最高の階級においても、ほとんど違わなかった。
 いつの時代でも、家具に凝ることはなかった。この点で上層階級と百姓の間の主な違いは、品物にほどこす贅沢なうるし、あるいは、あらゆる種類の芸術的な細工にある。日本から外国に輸出される美しい小ダンス、小間物は、二十年前には決しておもちゃではなかったし、現在でも、多くの人々の間では、実際おもちゃやではない。

 二十年位前には、江戸の職人の間で一番誇りとした仕事は、金蒔絵師の仕事であった。大名の娘が結婚する時には、黒か、ほかのうるし地の上に、黄金で家紋をほどこした駕籠と、たくさんの化粧道具や箱を娘に持たせてやるのが習慣だった。嫁入り支度のうちで、漆器は極めて重要と思われていたため、金蒔絵師は自宅で仕事をすることを許されないで邸に出向いて仕事をしなければならなかった。その代金は、どんなに法外であっても拒んではならないというきまりだった。職人たちはそれなりに立派な人間で、邸へ行く時には、いつも絹物を着ていた。・・・
 ところが維新以来、もはやこういった高価な品の注文はなくなり、この職業はすっかり衰退してしまった。この衰退はいちじるしいもので、事実数年前には、この仕事で収入の多い生活をもくろんでいた者が、今では人力車を引いているほどだ。・・・
引用終わり
posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
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