2008年03月28日

天津条約で恐怖を煽る

中国の悲惨さで恐怖を煽る

今回ご紹介している「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は著者のジョン・レディ・ブラック
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引用開始
 日本人は生来社交好きだ、だから彼らと仲良くしようと思えば、難しいことではない。それに二十一年前のこの国民の生活は、現代のヨーロッパに知られている以上に違っていたし、しかもヨーロッパの過去の時代(つまりヨーロッパの物語時代、「古き良き時代」とわれわれが特徴付けている時代)のものとして、知悉されているものをたくさん持っていたから、これを学ぶことは、珍しくもあり、また本当に楽しかった。
今日まで、日本滞在中、日本人の中で暮らすことに満足している外国人が非常にたくさんいる。彼らには「隠とん者の生活」とか、孤立しようという考えは全然起らない。そしてこの国の人々の友情と信頼を得ようと努めたハリス氏のやり方からみると、彼がこうした生活に気をくさらせていなかったことが、納得出来る。

 当時はまだ、後になって外交団を緊張させたような事件は起らなかったからだ。ハリス氏には、取り決めねばならない多少重要な事柄があるにはあった――例えば、貿易のために米国人が下田に居住する権利――。しかしこれらは空気のように微々たるもので、ほとんど苦労させなかった。
 天津条約(注)をもたらした英仏軍の成功は、ハリスが条約を結ぶのに、事実助けとなった。彼は、中国で横暴なやり方をしているこの二国の使節が、同じ行動を日本でも必ず取る、と主張して、幕府の恐怖をあおりたてた。こうして、二つの強国と日本との間における調停者として、必要ならば、出来るだけ尽力しようと約束をして、彼は執拗に求めていたものを獲得した。もちろんその必要はなかった。


 オリファント氏はハリス氏の条約の実体を簡潔に、だが面白く、こう片づけている――「ハリス氏は最近江戸から帰ったばかりだ。江戸で彼は、セーリス艦長(注)時代に結ばれたものよりも有利な条約を幕府と交渉するのに成功したばかりだった。
 ハリス氏は江戸で数カ月過ごしたが、その間、氏とドンケル・クルチウス氏とは、幕府に交渉に応ずるように勧める程度の、成果のあがらない努力を続けていた。1855年に、クルチウスは通商協約を結んでいた、これによると、若干の利権が外国人に許されたが、まだわずらわしいゲルトカンマー(勘定所の意味か―訳者)の機構が残っていて、貿易独占は種々の条件のもとに幕府に保留されていた。
 開化した原理にもとづいて貿易に従事する国々に対して、これらの条件は、さきの利権を役に立たないものにした。他方では、ハリス氏は、自分が代表している先進国民にとって、価値のある条約を結ぼうと決意していた。ドンケル・クルチウス氏は、ハリスがそうしているのを知ると、再び江戸へ行き、出来ることなら、先を越されまいと決心した。だがこの用心が役に立たないことが起った」。

「日本の政府を動かすことが出来ないことを知ると、二人は絶望した。ドンケル・クルチウス氏は長崎に向って陸路二ヶ月の長旅にのぼり、ハリス氏も下田に帰った。ところが、下田に着くか着かぬうちに、ポーハタン号が天津条約の知らせを持って到着した。ハリス氏はただちにこのニューズを江戸へもたらした。ドンケル・クルチウス氏が、重大事件の起ったことも知らずに、長崎へ向って苦しい旅をしている間に、ライバルのハリスは条約に調印し、下田に帰って自分の勝利を楽しんだ」と。

(注)セーリス艦長
 英国の東インド会社貿易船隊司令官。1613年に平戸に入港し、徳川家康に会い、平戸に商館を建てて帰国した。同行したアダムスが日本に残った。

(注)天津条約
1856年、フランス人宣教師が清国官憲に殺され、また英船アロー号が官憲に臨検を受け、中国人船員が捕われたため英公使パークスは謝罪を要求した。清国が拒絶したため、英国はエルギン卿、仏国はグロー男爵を広東に送り武力によって条約の改訂を企てた。これに露米二国が加わった。1857年12月、英仏軍は広東を占領し、さらに天津を占領するに及んで、清国は降伏し、英仏の主張どおりに、天津条約を結んだ。キリスト教の信仰と布教の自由、内地旅行と貿易の自由、外国使節の北京駐在、領事の開港場駐在、開港場の増加、軍費の賠償が定められ、関税も外国に有利に定められた。

 下田におけるハリス氏の生活を記述したものが、出版されているかどうか私は知らない。ここにある彼の住居の絵を見ると、環境は美しい。この住居は、下田の町から約一マイル半か、あるいはもう少し離れた柿崎村にあって、美しい下田湾から歩いて五分とはかからない。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
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