2006年09月10日

明治日本見聞録最終

英国人家庭教師婦人の見た明治の日本の記録
 今回も、エセル・ハワード著「明治日本見聞録」からご紹介します。彼女は自分の教え子たちの学校参観に行ったりして、熱心に彼らの教育に取り組み、特に男の子として、のびのびと育てたいと考えていたようです。
引用開始
【学習院】
 公爵と弟たちは、「学習院」と呼ばれていた華族学校へ毎日通っていた。この学校は、名前はそうであったが貴族だけに限定されていたわけではなく、家職の子弟でも入学を認められている者もあった。
・・・略・・・
 この独特の制度は、上にも下にもすばらしく融通の利くものだった。例えば、今の皇太子殿下(のちの大正天皇)が七歳になってこの学校へ入学されたとき、殿下とその侍従は、院長の乃木大将にその朝正式に迎えられたのである。
・・・略・・・
 子供たちは、クリケットより野球を好んで遊んだが、おそらく学校でやっていたからであろう。
・・・略・・・
 大体において、子供たちの学校生活がきわめて楽しかったことは確かで、学校に行かずに家に留め置かれることが罰の一つとみなされていたことは、子供たちがいかに学習院の生活を愛したかをよく物語っている。
・・・略・・・
 先生たちの中には、私の助けになると思った人たちが一人二人いた。私はときどき学校へ行って、子供たちの授業を参観したが、子供たちの成績改善を目指す私の努力に対して、先生たちからも多大の同情が寄せられたものだった。彼らの中には英語を上手に話す者が何人かいた。
 末の子の先生は、毎週私に英語で書いた報告書をよこしたが、私の帰国後もその学期の成績について報告書を送ってきたので大層感激したものである
・・・略・・・
 学生たちは、普通は学校の制服を必ず着ることになっていたが、休祭日は例外で着物に戻って寛いでいた。
 男の学生も女の学生も「袴」という裾の分かれたスカートを穿いていたが、それはよそ行きの場合は絹で、ふだん着はサージのような布地で作られていた。この袴の色は学校によって違っていた。赤が一番多く使われ、主として色合いの違いで区別されたが、紺も同様に人気があった。
 慣れないうちは西洋人にとって、日本の学生は皆同じように見えるので、誰かれを見分けるのは不可能に近かった。教育制度に関しては、日本は東洋で抜きん出て高い水準を保っていた。東京には清国から何千人もの留学生が来ていたが、彼らは都会の人々と同じ服装をしていた。そして、何人もの日本女性が毎年のようにシャムやその他のアジアの国々へ、家庭教師として出かけていた。
・・・略・・・

【滞在中の外国人について】
 私の国の人々についていえば、日本滞在中に彼らの言動が私の気に障ったことが何度かあった。
 ある日、子供たちと汽車の旅をしたときのことであるが、たまたま車室の予約をしていなかったのだが、同じ車内の一人の婦人が、われわれの一行が大人数なので入っては困ると大声で抗議し、さらに一緒の車室にたくさんの小猿がいるのはいやだとつけ加えた。この言葉は、私の生徒たちにもはっきり理解できた。私はこのように、西洋人が日本人のことを赤い顔をした日本の猿に似ていると言うのをよく耳にしたが、私が同じような経験をしていなかったらもっと驚いたにちがいない。
 全く日本人だけの間に数カ月暮らした後、ある日、鎌倉の海岸に出てみると、数人の外国人が木綿の着物を着て泳いでいるのに会った。彼らの際立って青い目や巨大な体格や赤ら顔は、その瞬間私に赤い猿を思い出させたのである。
 英国人やアメリカ人の多くは、機智と礼儀正しい心遣いに欠けていたので、私はしばしばつらい思いをし、かなり当惑させられたことがあった。特に、どの階級の日本人にも「ジャップ」という蔑称を使うことがそうだった。それは不作法で敬意を欠くのみならず、国民そのものを大いに憤慨させた。
 無知のためか、あるいはごく当たり前の常識や感情に欠けるためか、いずれにせよ、私に大層恥ずかしく腹立たしい思いをさせた旅行者に何人か出会ったことがある。
・・・略・・・
【戦勝祝賀会】
 ・・・私に一番印象の深かったのは、公爵が東京の日本館の庭で催した園遊会である。それは戦争終了後、東郷提督の栄誉をたたえて行われたもので、お客は日本人に限られていたので、私が招待客の一人となることができたのは大変ありがたいことだった。
・・・略・・・
 宴会の終わり頃に、国民の英雄でこの日の主賓である東郷提督が椅子に乗せて担ぎ上げられ、3回胴上げされたが、これも薩摩の習慣であった。
・・・略・・・
 このことがあってまもなく、私はある宴会で東郷元帥の隣に坐り、彼のことをさらによく知る機会に恵まれた。私は、彼の顔がすばらしい慈愛と平和の表情を湛えているのを見て感動した。戦いの恐怖を経験して戦地から帰ってきた現代の英雄たちにも、同じような表情が見られる。 彼らの安らかな表情は、死後の世界を垣間見たせいのように感じられた。
 日本のネルソンといわれ、また日本海軍の父といわれた東郷提督について私の受けた印象は以上のとおりで、日本海軍の優秀性は他に比類なく、その戦力は連合国の間で第三位を占めている。
・・・略・・・
 東郷提督は、日露戦争での連合艦隊司令長官で、旅順港を砲撃し、バルチック艦隊が到着するまで三ヶ月間自分の艦隊を隠し、として、敵が数においてはるかに勝っていたにもかかわらず、ついにロシア軍を完全に敗走せしめた、その人なのであった。
引用終わり。

 東郷平八郎元帥に会った外国人は、同じように彼の表情の中に慈愛とか謙譲とかを感じたようです。エセル・ハワードも「彼の顔がすばらしい慈愛と平和の表情を湛えているのを見て感動した」と述べています。
 私が子供の頃に知っていたお年寄りで、元戦艦陸奥の機関大佐の方がおられましたが、その方の家の床の間に、東郷元帥直筆の掛け軸があったのを覚えています。
posted by 小楠 at 11:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
こんにちは(礼)。

へぇ〜っ、赤い袴が一番多かったなんて、以外です。

>彼らの安らかな表情は、死後の世界を垣間見たせいのように感じられた。

命を賭して祖国を守った軍人さんたちは、本当に心安らかだったんでしょうね。

また、遊びにきます。
少し、ホロリとしました。
Posted by おしょう at 2006年09月11日 11:37
おしょう様
>>命を賭して祖国を守った
ここまでやって、ようやく本当の人間が完成するんでしょうかねー。
ちょっとでもこの心境に近づきたいものです。
Posted by 小楠 at 2006年09月11日 18:01
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