昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載しています。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は南京陥落時の谷口上等兵たちの動きです。
写真は我が軍に破壊されつくした南京城門

引用開始
「南京中華門まで一里!」
と声がかかった。ただひた押しの進撃だった。・・・・
十二月十一日朝、私たちは南京城の大城門を二千メートル目前にみて敵と対峙した。敵は城内と雨花台砲台と両方から猛烈に私たちを射ってくる。友軍の○砲も一せいに雨花台砲台に向って放列を敷き、彼我の○砲による大砲戦がつづけられた。晴れてはいたが寒かった。・・・
すでに中華門は五百メートルの近きに聳えていた。南京城に夜が来る。城内から射ちだす敵の迫撃砲はいよいよ猛烈をきわめて、軍工路といわず、畑といわず、一面に灼熱した鉄片の花火が散りつづけた。砲撃の目標となるので火は絶対に焚けない。星が満天に散っていた。
「こごでは死ねねェなァ」と石原上等兵がいう。
「五百メートルづつ走って、あの城壁の上でなら死ねる」
「そうよ、だからここでは死んでも死ねねェ」
にもかかわらず、間断なく射ち下される砲の弾片をかむって隣の○隊からは数名の戦友が倒れていった。黒々と目前におおいかぶさる大城壁の上には間断なくパッ、パッ、パッと一列に火が噴いている。シュルシュルシュルシュルと迫撃砲弾は休みなく頭上の夜気を震わせ、「衛生兵ッ!」と呼ぶカン高い声は遠く近くに夜を裂いて、大城壁の銃火のように私たちの感情を明滅させた。
大南京の敵はただ私たちだけに戦争を挑まれ、ただ私たちだけに戦いかかっているかのようであった。おれたちが南京城を攻めている。おれたちが南京城を陥す。そして、おれたちだけを敵は射ちに射ってこの大城壁を盾に叩き伏せようとしている――そう考えられるほど私たちの戦いは激烈だった。夜が明けるまでにこの大城壁の前に幾人の戦友が残るだろうか、と思うほど敵は砲をベタ射ちに射ちつづける。やがて夜が東の空から白々と明けてきた。
南京城に朝が来た。ふと、周囲を見廻してアッと驚いてしまった。私たちだけが戦争をしている、と思っていたのに、夜が明けて見たら、広い軍工路一ぱいに友軍の戦車と○砲がひしめきたって城壁に喰いついていた。当然のことだが、いまさら目を瞠る気持だった。戦車も、○砲も、もしできたら城壁を乗り越しかねまじい勢いでピッタリ一線に喰いついている。まったく「犇めきたつ」という感じだった。
夜が明けるとすぐ城門への突入がはじまった。前方には城壁をとり巻いて幅三十メートルほどのクリークがあった。クリークの土手は三間ほどの道路になっていて、そこに塹壕があった。城門はすでにピッタリ閉されて、泥や砂が一杯積んである。クリークの土手の敵は、城内に逃げ込む道はなかった。堪えかねてバタバタバタと城門へ走って行くが、片っ端から友軍の重機に薙ぎ倒されて、山のように重なって倒れて行く。
友軍の工兵が、材木に板をならべた筏のような渡架橋をもって走った。城壁の上から手榴弾と機銃弾が降ってくる。渡架橋は水煙をあげてクリークに投げ込まれた。城壁が轟然と音をたてて爆破される。大きな坂が出来たように土砂がザーッと崩れ流れた。ドーッと隣の○隊が飛び出したようだった。やがて城門を埋めた小山のような泥の坂のところで日章旗がしきりと打ち振られた。戦車は轟音をたてて動き、私たちもまた一せいに進軍した。
「十二時十二分!」と小林伍長が叫ぶ。ただ敵の死体と散乱する軍需品の海だった。・・・・
中華門を抜いたが、通りや広場にはところきらわず地雷が埋めてあったので、うっかり歩めなかった。
逃げおくれた敵兵が四人、五人とヒョロヒョロどこからともなく現れて、私たちの前で両手をあげた。私たちはこの連中を次々と捕え、さっそく地雷堀りに使ってやった。敗残兵たちは、得々とした顔をして、己が埋めた地雷を掘りかえした。私たちは地雷を掘ったり、敗敵を捕えたりしながら清涼山に登った。
清涼山には二段、三段と傾斜面を利用して壕がかさねて掘られてあった。壕と壕との間には小亭などがいくつもあって、僅かに戦前の面影をとどめていた。壕の中には銃を捨て、帯剣も捨て、フラフラになった敵があちこちに無表情な顔でうずくまっていた。壕を次々と掃蕩して山頂に登った。・・・・
中正路と漢中路の交叉する広場には日の丸の旗をかかげた戦車の蜿蜒たる列を先頭に、軍旗をかかげた部隊が、次から次へと、堂々たる行進で集っていた。ラッパの音が聞えている。この戦線に来てはじめて聞いたラッパだった。この列を抜けて荒木准尉と中華門へ引きかえして行くと、ここに○○以来の新しい兵○○名が私たちを待っていた。
この兵たちは私たちよりぐっと年はとっていたが、日夜私たちを急追したため新しい服もすっかり泥と埃でよごれていた。ズラリとならんだこの新しい兵隊たちを見て、「ああ、これだけ古い戦友が死んだり一線を退ったりして行ったのか」と思った。門の上で大日章旗がハタハタと風にはためく。しみじみとした感慨だった。・・・・
その翌日、私たちに「前進!」の命令が出た。太平から蕪湖に行くという。名残り惜しい南京だった。
「もっとここにいたいなァ!」とみんなが考えた。それも離れる瞬間の名残惜しさだった。動き出すと、すぐ私たちは南京を忘れてしまう。当面した新しい事態が全部を支配して、戦場は私たちをただその瞬間瞬間へ生き生きさせた。私たちの部隊が宿舎をたって思い出の中華門をまさに出ようとしたときだった。突然、だしぬけに「気をつけ!」の号令がかかった。冗談ばかり云い合って歩いていた私たちにはほとんど予期しないものだった。行軍をはじめてこんな号令がかかることは戦場へ来ては滅多になかった。ハッとして歩調をとる。城門の脇に○○部隊長と○○部隊長と岡本部隊長の三人が立って私たちの方へ敬礼していられた。
十四回目引用終わり