2006年08月28日

従軍看護婦の記録

 東京裁判では、当時の国際法上では被告になり得ない人たちを、無理やり被告にするために、マッカーサーは東京裁判のためだけの条例(チャーター)を作りました。しかし明らかに国際法違反の連合国側の犯罪には全て蓋をしています。ここに掲載するのはそのほんの一例です。
 もちろん日本本土の都市爆撃や極めつけは原爆投下、これらが先の戦争での戦争犯罪の最たるものですが、東京裁判では一切不問でした。

「従軍看護婦たちの大東亜戦争」より
kangofu.jpg

引用開始
【ぶえのすあいれす丸の沈没】
原田初枝(主婦・元大津赤十字病院婦長)

{爆撃を受けた病院船}
 昭和18年9月、私は三度目の招集令状を受取り、宇品港より『ぶえのすあいれす丸』に乗船して出発、10月2日ラバウルに上陸した。
 ニューブリテン島のラバウル赤根岬にある第94兵站病院に勤務していたが、やがて日増しに戦が激しくなり、毎日爆撃があって、最早女性の勤務するところではなくなり、ニューアイルランド島への転属命令が下された。再び懐かしい『ぶえのすあいれす丸』に乗船した。
・・・略・・・
 部屋では食後のひとときをそれぞれ思いのままに楽しんでいた。私は一人でトランプ占いをしていたが、今日は少しもついていないと言いながらトランプをめくっていた。その瞬間ピンピンピンと、船が何かに突き当たったような、また地震のような揺れを感じた。「やられた!」と誰かがいった。エンジンの音が止まり、隣の将校病室からどやどやと患者が出てきた。襲撃された瞬間に全員の荷物が放り出され、足の踏み場もない有様となった。爆音が遠く聞こえる中、思わず救命胴衣に手が届く。
・・・略・・・
 その時兵士に「看護婦さん、早く!何しているのだ」とせき立てられて慌てて左舷の中甲板に出た。見ればすでにボートは全部降ろされ、海上はボートと人で一杯だ。通路には、これまた多くの将校患者がいる。我先にと船の手すりにつかまりながら昇ってくる。幾本もの縄梯子がおろされた。見るも恐ろしい。
 私は「さあ、早くしっかり縄をつかんで降りなさいね」と言いきかせつつ、患者の帯を後ろより持って一人ひとり降ろしていった。覗き見ると、大きなギプスや飛行機材で作った副木をつけた人が無事に海面に浮いていた。
・・・略・・・

 海水が膝まで覆ってきた。40度くらいの傾斜があり、中川が足を取られて甲板上で沈み、彼女を引き上げ二人で左舷に行こうとしたが、またしても中川が今度は投身よけの網に靴を引っ掛け、なかなか抜けない。ようやく靴が脱げ二人は船の外に泳ぎ出た。
 私は琵琶湖畔で育ったため泳ぎには自信があった。二人で肩を組み、船に巻き込まれないように沖へと泳いだ。「死ぬ時は二人で死のうね」と言いながら20メートルほど泳いだとき、目の前に幅5、6寸、長さ一間ぐらいの板がぽかぽか浮いているのを見つけた。板に泳ぎついて、二人でその板につかまり泳ぎ続ける。海面は一面浮遊物、人、ボート、ブイでいっぱいだった。「船が・・・船が沈む」の大声に振り向くと、船は次第に船尾から水没しかけていた。
・・・略・・・
 海水と油で顔はぬるぬるするばかりか、油が目にしみて痛い。ブイに引き寄せられたが、すでに4、5人がつかまっていた。
 真っ白い船体、緑の横線、船上の赤十字のマークも鮮やかに、船尾よりブクブクと船が沈んでいった。・・・略・・・
 ボートには140人か150人くらい乗っていたと思うが、そのうち看護婦は11人いた。
・・・略・・・
 19時頃、爆音が聞こえた。友軍機か?いや、まぎれもなく米軍機コンソリーの音だ。いっせいに鳴りをひそめていると、近づくこともなく遠くに去った。
 海の中の兵が元気付けに軍歌を歌っていた。夜は潜水艦が浮上するから「静かに、静かに」の声がする。恐ろしく、悲しい、長い夜だった。こうして救助船を待ち続ける日々が過ぎていった。
・・・略・・・
 午前8時ころか、また爆音が聞こえた。敵機が空から私たちを“お見舞い”にきたのだと思った。「こしゃくな飛行機めっ」と誰が言うともなく叫ぶ声が聞こえる。毎日のように遭難の様子を見にやってくるのか、あるいは救助船爆撃の目的か。多い日はニ、三回偵察に来た。
・・・略・・・
 また爆音がして雲間からコンソリー機が遭難ボート頭上を低く飛び、ボート目がけて機銃掃射、曳光弾を落とす。悔しくて、思わず「血も涙もない米機のヤツ」と叫んでいた。
 艦長以下全員海に飛び込む。それと同時に海中目がけて30発ほどの曳光弾、ボートにも五、六発命中してしまった。海には多くの兵が潜っていた。
 大きな機体は頭上30メートルほど上にある。機体に描かれた星のマークも鮮やかに見え、双眼鏡で覗いている米兵の姿や飛行帽、笑っている顔まではっきりと見えるではないか。超低空飛行で頭上真上を過ぎるときの恐怖は耐え難いものだった。
 私は救命胴衣を頭に載せ、船縁にピッタリ身を寄せて、南無阿弥陀仏と唱えていた。コンソリー機は二回“旅回り”して再び向ってきた。今度こそ駄目だと目を閉じた。今にも機体ごと落ちてくるのではないかと思われたほどだった。恐怖で生きた心地もしない。
 私はボートの底で友としっかり手をつないでいた。そのとき、まさに天佑か!にわかに一天かき曇り、コンソリー機はスコールに追われて逃げていった。嬉し涙が頬をつたって流れた。待ちに待ったスコールだった。「早く受けぬと駄目だぞー」の声に、我もわれもとボートの上にあがり、雨を受けた。
引用終わり。

 真っ白い船体、緑の横線、船上の赤十字のマークは世界の病院船の約束です。これを攻撃するのは明白な戦争犯罪。おまけに漂流している遭難者に向って機銃掃射などは許されざる犯罪です
 あの有名なリンドバーグの著書には、もっとひどい日本人捕虜の虐殺が記されています。これはどう考えても、人種の差別意識がなければできない蛮行でしょう。
 それと、例の慰安婦たちも従軍と言うからには、召集令状を受取っていたのですかねー(笑)。
posted by 小楠 at 07:43| Comment(5) | TrackBack(0) | 書棚の中のアメリカ
この記事へのコメント
小楠さん こんばんは

くだらないことですが笑わないでくださいね。この記事のカテゴリーの「書棚の中のアメリカ」が、文字数の関係で二行に別れていまして(アメとリカの間で行が分かれる)最後の行だけ見て、「リカ」ってどんな内容なのかと若干ほくほくしてクリックしてしまいました・・・
Posted by 静流 at 2006年08月28日 23:54
静流さんおはようございます。
>>「リカ」って・・・
はははっ、静流さん、一体何を想像されましたか?
あれもできれば一行表示にしたいのですが、全体のレイアウトが崩れてしまうもので、しかたなくです。
Posted by 小楠 at 2006年08月29日 07:53
反日勢力撃退用・PDF資料館
http://resistance333.web.fc2.com/patriotism/patriotism_top.htm
Posted by at 2006年08月30日 01:01
はじめまして
ぶえのすあいれす検索でやってきました
私の母が同じく従軍看護婦でこの船に乗っていました
母に聞きますと、この沈められる前
5月11日に宇品で降りたそうで、一緒だった看護婦さんが大勢無くなったと話しておりました
ちなみに母は4月25日香港を出航したのち魚雷攻撃を受け
いったん香港へ帰港したそうで、記録にも
そのことがきちんと載っていました。
Posted by のす at 2009年02月25日 13:32
はじめまして・・
父は昭和17年満州・東寧からラバウルに転戦しまして、18年にマラリア発症し、ブエノスアイレス丸に乗船中、轟沈に遭遇しました。
同乗者のお力添えで無事帰還し、家族とも面会できましたが、1ケ月後に病気急変、戦病死したのです。

私もすっと情報不足のまま、病院船沈没の状況はどうだったのかと調べておりましたら、最近になって色々と判明して参りましたので
私ブログにアップしております。→http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself

沈没時の状況を(原田初枝婦長の手記)として一部転載させて戴きますので宜しくお願い致します。
Posted by 泰弘さん at 2010年09月18日 11:18
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/1196804
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック