2006年08月26日

英国貴族の見た明治2

「ミットフォード日本日記」より
 維新の動乱期を外国人の目でじかに見、そして今回、日露戦争に勝利した日本を再びその目で見たA・B・ミットフォードの日本評を抜粋して見ましょう。
引用開始
【徳川慶喜公との再会】
 1906年2月21日、・・・・午前9時30分に何人かの日本の貴族が殿下の訪問客として見えることになっていたので、それまでにたくさんの用事を片づけなければならなかった。
 訪問客の中でも最も著名な人物は前将軍徳川慶喜公爵であった。・・・・この偉大なる人物は静岡の城に隠棲し、以前の家臣のために茶の製造事業を興すかたわら、自分は野外でのスポーツや漢詩を作るのを趣味とした。
 彼が失脚する寸前、三十歳の時の彼を覚えているが、徳川公爵は私が今まで会った人物の中でも際立って立派で上品な風貌を備えた人であった。しかも、それだけではなかった。彼は極めて人好きのする優雅な態度と魅力的な物腰を備えていた。背は高くなかったが、非常に均整がとれていた。顔立ちは彫りが深く、口も歯も非の打ちどころがなかった。顔色は明るいオリーブ色で、その手も脚も彫刻家のモデルにしたいほど優美であった。彼がほほえむと、顔全体が明るくなった。年をとった現在でも、彼の立派な外見はほとんど変わらず、その魅力はすべてそのまま残っていた。
・・・略・・・
 数日後、アーサー殿下の昼食会に招かれた彼と再び会ったので、その時かなり長い話をした。私の名前が変わったので、最初、彼は私が誰だか分からなかったようであったが、説明すると私のことを思い出して、極めて打ち解けた態度で話を始めた。「あなたと大坂で会った時から思うと、世の中は随分変わりましたね」というのが彼の最初の言葉であった。本当に大きく変わったものだ。
 最後に彼を見た時のことを覚えている。それは伏見の戦いの後で、戦いに敗れた将軍が、大坂へ馬に乗って戻ってくるところであった。彼は護衛の武士たちに囲まれて、兜をかぶり、面頬をつけ、日本の古式豊かな鎧を着て、軍勢の先頭に立っていた。それは決して忘れることの出来ない絵のような光景であったが、その日は歴史の上で運命の分かれ道となった日であったのである。

【京都再訪】
 1906年3月8日、神戸上陸の前に、我々一同は片岡提督に別れを告げに行った。提督の艦隊は日本水域を航行中の殿下に対し、かくも堂々と名誉の護衛を務めたのだ。・・・・神戸に上陸すると、十隻を下らぬ軍艦が放つ告別の礼砲が周囲の山々にこだました。
 岸壁での殿下の歓迎ぶりは、よそと同じような熱狂的な歓迎であった。私が1868年、維新当時、そこに最初に上陸した時、神戸は、兵庫の郊外にある荒れ果てた土地が広がった地域で、小屋一つなかった所だが、この数十年の間に文字通り無一物から、およそ二十七万の人口を有する第一級の重要な都市に成長した。・・・略・・・現在、神戸は輪出入貿易のお陰で日本でも第一級の港になっている。
・・・略・・・
 神戸から京都までは大した距離ではなかった。・・・略・・・
 駅から京都の市内を通って馬車を進めると、歓迎の声が今までよりもさらにひときわ高くあがった。私は黒木大将と京都府知事と一緒に馬車に乗っていた。歓声が最高潮に達した時、知事は私にこう言った。
 「あなたは、この歓声が単なる意味のない叫びと思ってはいけません。あなたが巡遊されているこの国中のすべての学校で、すべての子供たちが、どんなに小さい子供でも、日本へきたこの使節団の意味を十分に教えられているのです。子供たちは皆、それが天皇陛下に最高の敬意を表するため、甥御の殿下を使節として送られた英国国王をたたえるためだということを存じております。それだけでなく、日英同盟の大切なことも教えられております。ですから、何も分からずに喝采しているのではなく、心からの歓迎をしているのです」
・・・・略・・・

 我々が横浜に上陸した最初の瞬間から、ずっと最後に至るまで、歓迎の声に真実の音の響きがあったことは、私が確信を持って言えることである。このような教育方法は、教練や体育訓練と同様に、我が国の学校教師が同盟国日本からヒントを得てしかるべきものであろう
・・・略・・・
 大名とサムライが、彼らだけで新しい日本を形づくるのに成功したわけではないといっても言い過ぎではないだろう。彼らに必要だったのは、ミカドの宮廷の協力であり、それなくしては革命は大名と将軍の単なる内戦に終わったに違いない。
・・・略・・・
 奈良とその神聖な森を見物したので、京都へ戻って西郷京都市長の古風な日本式晩餐会に出るための着替えをしなければならなかった。
 晩餐のために着替えるというのは簡単なことのように思えるが、この夜の場合はそれが全く簡単なものではなかった。招待状には「日本服を着て出席されたし」と明記されており、我々が最初、東京へ着いた時、西郷市長は京都からわざわざ使いを寄越して、我々の体の寸法を計らせて銘々に日本の着物を贈るという大変な親切をしてくれたのであるから、彼の希望に従うしかなかった。
 日本の着物を着るということは、我々の誰一人解決し得る問題ではなかった。いろいろ紐を結ぶところがあるので、手ほどきを受けたことのある人しか、そのこつが分からず、考えられないような無作法な着方になる恐れがあった。しかし、親切で巧みな手助けを得られたので、迎えの馬車が来る頃には、我々は正確な着付けをした日本紳士の装いを済ますことができた
 日本の着物ほど快適な着物を見つけることは難しいだろう。それを着ていると、夏は涼しく、冬は温かくて寛げるのだ。なぜ日本人は着物を捨てて、我々の不恰好な服装をしようとするのだろうか。私にとって具合の悪いことが一つだけあったのは、親指の分かれている白い足袋で、足指が痛く感じられたのだ。しかし、これも慣れの問題だろう。
 衣服の問題に関しては、市長の晩餐会は万事が逆さまであった。我々英国人の客が全部日本の着物を着ているのに、日本人の客は全部洋服なのだ。東郷提督も黒木大将も、その他の人たちも、今度の旅行に日本服を持参していなかったので、晩餐会にはとにかく持っている服を着るしかなかった。
 それは実に奇妙な光景だった。我々の一行の中には、日本服をきちんと着こなした紳士としては、全くそぐわない箸の使い方をする者もあった。黒い洋服の連中は、ごく気楽な様子だったが、それと反対に、着物組は当惑することが多く、可愛らしい器用な手で絶えず手助けしてもらわなくてはならなかった。
 畳の上に座るにしても、洋服組はきちんと正座しているのに、哀れな着物組は、実にぶざまな格好で足を伸ばして座らざるをえなかった。
 このようなことすべてが、夕食の接待に忙しい可愛い芸者たちの目に面白く映ったらしく可笑しさを隠し切れなかったようだ。・・・略・・・彼女たちはいつも当意即妙の受け答えをし、冗談が分かるのも早ければ、それに応酬するのも早い。陽気にふざけて楽しそうに笑いはしゃぐ。この少女たちの中の数人はほんの子供で、誰か監督がついているわけでもないのに、礼儀作法を厳格に守っているのは驚くほどであった。・・・略・・・ 
引用終わり 
 
 最後の着物を着たくだりは大変面白いでしょう。
 明治期に来航した外国人の日本に対する印象記を色々読んで見ますと、日本人は世界一清潔好きとか、礼儀正しい、親切、賄賂を取らない、などの言葉が沢山出てきます。そのような日本人伝統の美点が、現在では忘れ去られたかのようですが、世界の中で尊敬され、信頼されるこのような美点はこの先長く受け継いで行きたいものです。
posted by 小楠 at 07:20| Comment(5) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
かつてアインシュタインは、「日本人の素晴らしさは躾や心のやさしさにある」と評し、その精神は、まさに新渡戸稲造博士が武士道で著しています。挨拶がきちんとできない、路上や公園にゴミを捨てるなど公共心の欠如(教えられていない !)が叫ばれていますが、次期首相候補の安倍官房長官・麻生外相共に次期政権の最大課題は教育基本法の改正をあげています。長い日本の歴史から考えると、戦後60年間は反日や日教組によって教育廃頽をきたした一時期でしかないと思います。優秀な日本人ですから、これから修身・道徳を復活させ、日本の伝統精神と品格を高める世代が来ると思っています。
Posted by カピタン at 2006年08月26日 14:17
あの時代、国家vs国家ではアジアに圧力をかけていても、個人レベルでは日本に敬意を示す人はたくさんいたのですよね。いろいろな事情もあって日本に恫喝外交を行ったイギリス初代駐日総領事のオールコックが、一個人に戻ったときは日本を賞賛しているのもそうでしょう。





Posted by j.seagull at 2006年08月26日 15:29
カピタンさん、
>>日本の伝統精神と品格を高める世代が来ると思っています。

遠回りのようで早いのが教育改革でしょう。目先の政策ではよけいに遅れてしまいます。根本を正すことが永続には大切ですからね。

j.seagull さん、
オールコックのも読まれたようですね。当時の外国人はほとんどが日本人を賞讃していますね。人間性、人格、品性には世界共通の価値基準があるようです。それを生まれながらに、勿論教育を含めて持ち合わせていた先人には頭が下がります。考えるたびに、共産主義者や日教組には憤りを感じます。
Posted by 小楠 at 2006年08月26日 18:00
オールコックの本は実はまだ買ってません(^^ゞ
NHKの「その時歴史は動いた」で取り上げていたのを見て知ったのです。
「オールコックの江戸」という中公新書の解説本と、元々の「大君の都」が岩波文庫で出ていることは知っていますので、いつか読んでみたいと思っています。ただ、後者の方は出版社が・・・(笑)

あと、昨私の方にいただいたコメントを誤ってエントリーごと削除してしまいました。せっかくのコメントなのに申し訳ございませんでした。
(エントリーはバックアップから復活させました)
Posted by j.seagull at 2006年08月26日 18:59
j.seagull さん、
>>「大君の都」が岩波文庫で・・
解ります。私もそういう買い方をするのですが、大君の都は買ってしまいました(^_^;
Posted by 小楠 at 2006年08月26日 19:42
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