2008年02月22日

明治日本人の熱中対象

蒸気船への熱望

 英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
 今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。

引用開始
 模倣の才と珍奇な物を好む性質の持主である日本人は、1870年(明治三年)頃には、ヨーロッパの製造品を、小児が玩具を欲しがるように、愛好品として所有したいという熱望が大変に旺盛であった。ヨーロッパの新しい物がこの国へ入って来た当時は、その所有欲は、実用品として利用したいというよりも単に珍しい物を所有したいという欲望が強かった。このような気質から全く馬鹿馬鹿しい事態がしばしば起った。

 例えば、当時の日本人は兎という動物を知らなかった。あるイギリス人貿易商が耳の長いこの動物を数匹日本に持ち込むことを思いついた。その結果は、日本人はすっかりこの可愛い動物のとりこになり、それを飼いたいという熱望が国中に広まった。商人はカリフォルニアやオーストラリアや支那で飼い兎を捜して買い集め、汽船が日本の港に入る度に数百の兎が舶載されて来た。それでも兎に対する需要は一向に衰えず、熱狂した買手は一匹の兎に100ドルもの値をつけた。政府も驚いて輸入を制限するため兎の輸入に重税を課した。この措置で、さしもの兎熱も短期間で冷却して兎の輸入は全く跡絶えた。

 同じような、しかしそれほど激しくない所有願望は、豚や羊を対象にしても起こった。豚も羊もそれまで日本にはいなかったのである。このマニアは少しくトラブルを惹き起こしたものの、短期間で消滅した。・・・
 1860年代(万延年間)、70年代(明治三年〜十二年)に起こった日本人の最初の熱中の中でも特に熱中させ、永く続いたのは蒸気船を持ちたいという熱望であった。幕府や封建諸侯、その他資本に余裕のある者は蒸気船を購入した。
 日本のような島国では蒸気船は単なる玩具ではなく、最も高価な実用品の代表でもあった。最初の購買者には不幸なことであるが、蒸気船の構造が複雑で、無知な者の手にかかると非常に危険な代物であった。


 日本人は自分で蒸気船を操縦したり、機械を運転した経験を持たなかったことは言うまでもない。日本人船主は未熟な者に船を任せた結果、それが災難の頻発する原因となった。そして、無知なためにその災厄が予見できず、次から次へと船を買い求めたが、それはただ彼らの抑えきれない、新奇な物に対する欲望を一時的に充たすに過ぎなかった。その頃の日本人は、文字通り世界中に蒸気船を捜し求めた。合衆国、支那、印度、フランス、イギリス等の各国は、自国のために調達した船舶さえも日本向けに回した。それも既に役に立たなくなったものや旧式なものでも、容易に、かつ安価に手に入るものを日本に送り込んだ。日本人もまた安価で速やかに入手できるものならどんなものでも欲しがった。破損したり、あるいは古くて使用に耐えなくなって放置されていた船が、この新しい市場の売物にするため、応急の修理が施され、新しく塗装された。日本人は、自身で船体や機関の検査能力がないくせに、ヨーロッパ人の助言を退け、この上なく無駄な買物ばかりして、良心的でない商人や代理店を喜ばせたのであった。

 時には船が出港できなかったり、また機関を停止することが出来ない場合があった。機関が壊れたり、給水不足から汽缶が焼損したり、ときには爆発して死傷者が出るといった恐ろしい事故が起こったが、それらは決して稀なことではなかった。・・・・
 我々の灯台業務用船は、日本人が乗組んだ蒸気船が座礁したのを救助するため、就航以来六、七回も出動した。そんな場合は、どの船もろくに手入れもしてなく、全くひどい状態であった。機械は赤く錆びているか、また油やグリースでベトベトであった。甲板は砂磨きもしてなく、船室は汚くいやな臭がし、ロープや船具類は乱雑に山になって積上げてあった。

 実際に、外国人の発明品も日本人の手に掛かるとこんな状態になるのが普通であった。日本人が異国の船に乗組んで立派に任務が果せるようになるまでにはある時間が必要であったのである。日本人が伝統の清潔好きの習慣をこの新しい場所に持込み、日々の課業の規律を身に付けるまでには、なお長い年月の訓練を要したのであった。
 海図や航海の指導書もなかったので、これらの船の船長は航海のルールの知識に欠けていて、夜間に所定の航海灯を掲げることなど考えもしなかった。それは乗組員自身にも決して安全でなかったが、それよりも訓練された船員が乗組んだまともな船が、こんな船と衝突して遭難する危険があった。
 日本の蒸気船がある時舵が利かなくなって、外国船が出入りしている港の中を右往左往している様は、まるで狂人が荒れ回っているようであった。・・・・・
 西洋の文明を吸収するに従って海路旅行の手段がますます日本人には必要となってきた。彼らはすぐこうした特殊な分野における己の無能力さを正しく認識するようになった。その結果、次第に外国人の航海士官や機関士をすべての日本の蒸気船に任用するようになった。また新しい船を買う前に西洋の進歩した技術の習得に励むようになった。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:08| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
この記事へのコメント
日本人の新しい物好きは元来の性分なのでしょうか。それとも鎖国で外からのモノを渇望していたためでしょうか。蒸気船は実用的だしわかりますが、兎ブームがあったとはおもしろいですね。干支に兎はあるし、因幡の白兎の話もあるけれど、珍しい動物だったのでしょうかね。
Posted by milesta at 2008年02月29日 13:34
milesta 様
高価な蒸気船を夢中になって購入していたという点、ちょっと以外だったのと、「うさぎ」がそれまで日本では珍しい動物だとは思いもしませんでした。
神話にも出てくるのに、と思うとどうもそのまま信じられない思いです。
Posted by 小楠 at 2008年03月01日 08:09
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