2008年02月21日

日本最初の鉄橋架設

伊勢佐木町の吉田橋

 英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
 今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィス、の手になっています。

引用開始
 日本人を駆り立てた進歩の精神を象徴するいま一つの例は鉄橋の架設である。
 1870年(明治三年)に見た日本の橋の構造は、前に述べた住宅と同様に非常に原始的なものであった。橋脚は木の皮が付いたままの材木である。一番目の橋脚は日本の工法が許す限り岸から離れて地中に打ち込んである。橋脚と橋脚の間には二本の材木が渡してあり、それには日本の橋に特有のアーチ形を造るよう曲った材木が選んである。橋脚の上部には横に並べて厚い板が張ってある。これに粗雑に造った手すりをつければ橋は完成である。こんな橋は絶えず修理が必要で、また馬車などは通れない。橋は五年毎くらいにすっかり架け替えなければならない。

 横浜から東京への幹線道路にあるこの短命な※橋の架け替えを、寺島知事に求められた。彼は旧来の橋に代えて恒久的な橋の架設について私に相談をもちかけた。この架橋は一つの実験の意義を持つものである、と彼は私に説明し、ヨーロッパではどのようにして橋を架設するかを日本人に見せたいのだと言った。しかし寺島はこの架設工事に多額の経費を支出する権限は与えられていないので、ヨーロッパから架橋に必要な資材の輸入や、架橋専門の外国人技術者の雇れはできないことを表明した。


 寺島のこのような意図を知った私は、仕事の困難なことは分かっていたが、これを断るよりも、何とかして助力者を得て仕事に取組む気になった。イギリスの鉄道で鉄橋の架設工事に若干の経験があったので、かなり条件は異なるが、全くの無鉄砲で引受ける決心をしたのではない。私の設計では石の橋台(アーチの両端を支える台)にラチス橋(格子型の骨組で支えた橋)で橋脚間は長さ約100フィート(約30,5m)、橋の幅25フィート(7.6m)のものであった。

 幸運にも横浜で鍛冶工の技能者が一人見付かったので、彼の助力を得るため雇入れた。鉄板を手に入れるため、日本や支那の外国人居留地をくまなく探したところ香港で入手することができた。工場から穴空け機と剪断機を借り、鉄板を所定の寸法に剪断し、鉄鋲を打込む穴を空けた。大梁はすべて日本人が組合せ、鉄鋲を打って組立てた。彼らはかつてそそんな工具を使用したことがなかったので、自分たちが扱った仕事の性質についてはまるで知らなかったのである。

 この一つの工事が民衆の心に非常な興味を喚起した。架橋工事の間中、サムライや商人階級の群集が、唐人(外国人のこと)の新奇なもくろみを見物しようと蝟集した。人々は工事に使う大きな石に腰を下ろし、日本の小さなパイプ(煙管)で煙草を詰め替えては喫い続けながら、この珍しい見物について議論しながら飽かずに眺めていた。後で知ったことであるが、知ったか振りの連中たちは、私の仕事の成功を疑問視していたそうである。

 しかし諺にも「一事が万事」と言い、一つの事が成就すれば何事もうまくゆくという意であるが、日本においては殊にそうである。日本最初の鉄橋は何の故障もなく架設された。橋の許容荷重をかなり上回る荷重でテストしたが、鋲打ちの弛みから橋の中央部で設計よりわずかに多くたわむ外は満足すべき結果であった。

※橋は伊勢佐木町の吉田橋である。開港直後木造の橋が架けられたが、慶応末年に破損が甚だしくなったので、ブラントンに架橋が委嘱されたのである。工費は7000円で通行する馬車から一銭、人力車から五厘の橋銭を徴収した。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
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