2008年02月20日

明治初年の薩摩訪問

明治初期の島津藩で

英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
 今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。

引用開始
 このときの航海で最も興味深かった所は、有名な島津藩の城下町である鹿児島と薩摩の他の場所を訪れたことであった。
 鹿児島は、かつて横浜近くの街道で四名のイギリス人一行が薩摩の大名の家来に襲撃され、殺傷された事件の報復として1863年(文久三年)7月にイギリス艦隊によって砲撃されたことがあった。この砲撃の結果、薩摩人の間に、西洋文明を高く評価する気運が生じたのであるが、私が訪れたときにそれを証明するいろいろの事物を見た。

 薩摩の君主島津三郎(藩主島津忠義の父)はいまだに中央政府から独立した勢力を保持してはいるが、1870年(明治三年)頃では天皇の政府から不信視されていた。事実、井上は我々がどんな歓迎を受けるか心中で測りかねていたので、自分でこの地の当局の意向を忖度するまでは我々に上陸を見合わせるようにと言った。我々の船が鹿児島に着くと、彼はすぐに陸岸に向い、四、五時間たって四人の薩摩の役人を伴って帰って来た。役人たちは、我々を心から歓迎し、及ぶ限りの援助を惜しまないと言った。
 役人はまた、彼らが通常殿様と呼んでいる薩摩の大名が、次の木曜日の夕刻に我々と晩餐を共にしたいと願っており、我々がそれを受けることを望んでいると言った。殿様の親切に対し我々の感謝を伝えて戴きたいと役人に頼み、我々はこの歓待を喜んだ。
 彼らはまた「誠に言いにくいことであるが、遺憾なことに殿様はワインをお持ちにならないから船からいくらか持参して戴ければ幸いである」と言った。我々はシャンペン六瓶とシェリー酒六瓶を晩餐会への贈物とした。


 翌朝、役人がまた船にやって来て、薩摩で建設予定の灯台の作業の概要を知りたいと言ったので説明をした。灯台建設場所は鹿児島から40マイル(約64キロメートル)南の佐多岬で、さきのマニラ号の航海のとき、私が上陸できなかった所である。
 この後役人は、我々を案内して鹿児島に上陸し、大きな紡績工場を見せた。見たところ工場内はよく整頓されて十分な機能を発揮しているようであった。使用されている機械はイギリスのオルダムで製造され、長崎のグロヴァー商会を経て輸入されたものであった。
 我々はまた薩摩の兵器工場も見せてもらった。そこでは大口径の大砲や弾薬を製造中であった。当地では各種の有益な事業、例えば造船、ガラス器の製造、木工業等も行われていた。・・・・

 殿様から招待された夕刻、我々は紡績工場の中の大きな部屋へ案内された。二十人分くらいの食器類が長いテーブルに並べてあった。陶磁器はスタフォード(イングランド中部の州)の産、刃物はシェフィールド(イングランド北部の都市)産のものであった。殿様は出席されないが代理としてある重臣が出席したと説明があった。なお、殿様から我々への贈物を受取って欲しいと言った。贈物は美事な薩摩の陶器と絹織物など数点であった。これら歓待の思い出の品々を私は未だに秘蔵している。

 晩餐は、巧妙に調理し美事に盛り付けしたフランス風の料理に、日本流の味付けがしてあるようだった。ただ非常に奇妙なことには、スープからデザートの菓子までのフルコースを一同で共にして食事が済んだと思ったら、また新しく食事が運ばれ、再びスープが並べられ、次いで前と同じ順序で他の料理のコースが続いた。こうして二度目の食事が終ったとき、私が見たところでは主人側では更に食事を出すつもりでいるようであった。そこで私は井上に、その必要のないことを耳うちした。井上は薩摩の役人に私の示唆を伝えたので、このサイクルが停止し晩餐会は終った。ヨーロッパの形式に従ってビクトリア女王と天皇睦仁及び薩摩の殿様の健康をたたえ、杯を乾したが・・・・・
 この晩餐会は、日本人が新しい物を取入れることを好む性質の例証を更に一つ加えたものであった。・・・・

 医師W・ウイリス氏はこの頃唯一人のイギリス人として鹿児島に在住していた。彼は日本では知名人で、日本人及び外国人の双方から等しく尊敬を受けていた。彼はイギリス公使館に長年雇われていた優秀な外科医で、先年日本が経験した狂乱の時代に、日本人に図り知れない援助を与えた。当時通訳生であったアーネスト・サトウ氏と共に19世紀に京都に入った初めての外国人であった。彼は帝の擁護者によって新しく発足した政府に招かれ、折柄の戦乱、特に伏見の戦闘では、負傷者や病人の救助に力を尽した。薩摩の殿様は特にこのときのウイリス氏の働きを高く評価して高額の報酬を与えようとしたが、ウイリス氏はこれを固辞した。維新の動乱がおさまったとき、薩摩の殿様はウイリス氏に、鹿児島に移って藩主及び住民に医療の便益を与えてくれるよう請うた。彼はこの申し出を、穏当な報酬で五ヵ年の期間を限って受諾し、自ら進んで僻遠の土地に赴きこの条件を果しているときであった。
引用終わり
posted by 小楠 at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
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