2008年02月19日

明治元年の長崎にて

明治元年の長崎で灯台設置調査

英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
 今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。

引用開始
 長崎の知事、井上馨に面会した。彼は若い男(井上馨は天保六年生まれ、当時三十三歳)で、彼は教育の一部を合衆国で受けた。彼は流暢に英語を話すので私は必要な仕事を容易に処理することができた。彼は私の依頼には快く応じて出来る限りの協力を約束してくれた。たまたま私がアルガス号での日本政府高官の突飛な行為を話すと、彼は大変に面白がった。そして「彼も良き日本人であるから、すぐにもっと分別をわきまえるであろう」と高官を弁護した。・・・・

 長崎は高い丘陵に囲まれた世界中で最も美しく、かつ安全な港の一つである。外国人の居留地も日本人の市街も丘の北東側に位置し、絵を見るようなたたずまいは殊更に興味深い眺めである。長崎では近代化を図る日本にとって重要な多くの計画が実行されている。大型船の造船台が設けられ、種々の工作機械を設備した工場が建っていた。ここでは日本人のみが働いており、工場は全部が稼動しているようであった。イギリス人※グロヴァー氏の商会は、近くの小島、高島に発見された石炭の採掘で日本政府との間に協定を結んでいる。彼は私が知る限りでは、日本でこの鉱物の採掘の許可を得ている唯一のヨーロッパ人である。

 私は高島の採炭作業場を訪れた。そこは毎日三百人の労働者を雇い、近代的巻揚機やポンプの設備があり、毎日約200トンの良質の瀝青炭を産出する。この石炭はトン当たり4ドル50セントで売られている。イギリスから輸入する石炭はこの頃1トン7ドル50セントもした。・・・・
 この第一回の視察航海が終り、いよいよ灯台建設推進の手順が出来上がると、灯台補給船の必要なことが改めて痛感された。私は東京の政府から、この目的に適う船が購入できる機会がくれば通知するように命ぜられていた。


 間もなくその機会が向こうからやってきた。サンライスという名の新造で小型のスクリュー推進のイギリス汽船が入港した。積載量は400ないし500トンで手ごろな広さのキャビンが二つあり、必要な寝所も備わっていた。横浜に駐在していたイギリス海軍の機関士に気缶や機械及び船体をくまなく検分してもらったところ、良好だしいう報告を受けた。そしてハリー・パークス卿も賛成したので、私は日本政府にこの船の購入を申し入れた。船の所有者でもある船長は売却を代理店に委任し、代理店を通して売値は6万ドルと決定した。この価格に日本政府も承諾した。・・・・

 私は、ペニンシュラー&オリエンタル郵船の汽船でサザンプトンを出発し日本に赴任したのであるが、そのときの航海で首席航海士のブラウンの知性のある態度や振舞いに感銘を受けた。そこで私は彼に、会社における現在の職を辞して灯台補給船の船長として日本政府に勤める気持ちはないかと尋ねたところ、彼は私の誘いに応じた。雇用の条件も決まって1869年(明治二年)2月24日ブラウン氏はサンライス号の船長の職についた。イギリス士官や機関士及び日本人船員も同時に同船に雇われた。ブラウン船長は教養があり、責任感が強く、また極めて慎重な人柄であったから、多くの日本人に好かれた。・・・

 ブラウン氏がサンライス号の船長に任命されてから横浜近傍の灯台への近距離航海を数度行った後、1869年7月7日、日本南西海岸を一周する航海を始めた。そのとき私といっしょに航海した日本の官吏は井上(薫)であった。彼は英語を正確かつ流暢に話し、彼はいっしょに教育を受けたアメリカ人仲間のユーモアと活動的な性質を吸収しているように思われた。私がこれまで会った日本人にこうした活動的な精神を見たことがなかった。彼は同僚日本人の旧套なやり方に対して遠慮会釈もなく嘲り続け、彼特有の方法で活を入れてびっくりさせるのであった。日本沿岸航海のうち、この井上のような下級の役人とした児戯に類する論争ほど私の気持を自由で愉快にしたものはなかった。

 政府の各局のうち、井上が関係した灯台業務ほど順調な発展をもたらした所はなかった。久しく下僚にとどまるにはあまりにも有能であった陛下の僕の井上は、政府の他の省に異動し、目覚しく昇進した。1878年(明治十一年)彼は英国宮廷(Count of St. James)に日本の高官として招かれた。1878年ロンドンの土木技師協会の会合で私が日本の灯台についての論文を発表したとき、彼は快く会合に出席してくれた。
 日本の南西沿岸の航海にはその他に、私の妻と日本を訪れていた退役印度人将校も乗船していて、私が灯台設置の予定地を視察するときには同行した。

※グロヴァー
 幕末期に日本への密貿易で活躍したイギリス商人。彼は長州藩へ七千挺以上もの小銃を供給した。日本人のヨーロッパ留学も援助し、そのうちに伊藤や井上も含まれている。また、彼はイギリス公使パークスの薩摩藩接近の仲介役をも果した。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
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