2008年02月18日

明治灯台建設地測量航海

灯台建設場所測量航海の様子

英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
 今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。
写真はブラントン
brangton02.jpg

引用開始
 日本における私の主務は灯台の建設である。その第一歩は航海者たちが推薦した予定場所を検分して回ることから始まった。これらの場所を訪れる唯一の方法は海路の旅行しかなかった。・・・・
 早急に灯台の建設を始めることに最も熱意を持っていたハリー・パークス卿は、イギリス海軍の提督ヘンリー・ケッペル卿に、この事業のため彼の指揮下にある艦船の一隻を特派するよう慫慂した。公使の要請に基いてケッペル卿はジョンソン艦長の指揮するイギリス海軍のマニラ号を派遣してくれた。こうして私の最初の日本沿岸一周はこの軍艦によって実現した。・・・・士官室には三名の日本人が居住し、下甲板の水兵の間に十八人ないし二十人の随行日本人がいた。
 我々の旅行は1868年(明治元年)11月21日に始まった。未調査の湾を測量したり、灯台建設の予定地を訪れたりして、航海は1869年1月5日に終了した。・・・・・

 この航海において日本の紳士たちはヨーロッパ式の食卓につくのが始めてであったから、彼らの反応はかなり我々の興味をそそった。薬味入れのガラスの小瓶やナイフやフォークに皿などを見た彼らの珍しがりようは大変に滑稽であった。
食卓用具のそれぞれの使用目的について全く知識がなかったから、どれもこれもまともに扱えなかった。ケチャップや食用酢をなめてみて顔をしかめ、胡椒のふりかけ瓶を嗅いだときは大変なことになった。
 牛肉や羊肉は訝しそうに見詰めた。はじめ二、三回の会食の席ではヨーロッパ人たちはおかしさに吹き出すのを押さえることができなかった。それがどんなに口にあわない食物でも威厳を崩さず、静かにすました顔でもぐもぐと味わうので、なおさらおかしさを誘うのだった。馬鈴薯その他の野菜はかなり好む様子であった。

 しかしこれは彼らの急激な変化に対する適応の能力を示すものとして認めなければならない。というのは、二、三日たつと、彼ら日本人は食卓では、育ちのよいヨーロッパ人同様に振舞い、前に並べられたどの皿もおいしそうに食べるのであった。彼らはナイフやフォークを使うことを少しも苦にしなくなり、薬味も間違った使い方をしなくなった。・・・・
 東京の帝の政府は、地方の役人に対して我々にあらゆる援助を提供するよう訓令してあると聞かされてきたが、事実、彼らが私の要望に応えてたゆみなく努力を傾けてくれるのにはひどく感激した。 大名、すなわちこの地方の領主は、我々に対する贈物として大量の甘藷や数羽の鶏を艦まで届けてくれた。
 これらの贈物は喜んで受取ったが、陸岸で荷物の運搬に使役されている数頭の黒い牡牛を見て、食用に一頭を買う交渉をした。値段のことは、すぐに双方で満足する額が決まった。しかし仏教徒である島民は本能的に、牛を買いたいと申し込んだ我々の目的は神聖なものであると思い込んでいたが、後になって我々の本意を知ると断固として商売を拒否した。彼らが言うには、牛が自然死するまで待つのであれば売ってもよいが屠殺するなら売らない、というのであった。
 彼らの良心の呵責は、値段を上げることを申し込んだ結果、幾分やわらいだ。残りの良心は、これは断っておかねばならないが、罪のないごまかしを使うとすっかり解消した。・・・・

 こうして我々は広島に着いた。ここである不幸な事件が起ったが、この度は、日本人の性質の非常に快い賞賛に値する側面を見た。マニラ号の士官候補生である十九歳の青年が艦の錨泊中に急死した。遺体は美しい湾の岸辺に埋葬することになり、艦の全乗組員が柩について行った。死亡した青年と同国人の士官たちの一団と少し距離をおいて立っていた日本人たちは式が行われる間中黙礼をしていた。式が終ると東京の高官は墓前に進み、支社を悼む短いスピーチを述べた。彼は終りに日本では死者に花を贈る習慣があるが、この場所に花がないから墓石を建てて、この墓地がこの地方の役所によって鄭重に守られるよう東京の政府に命令を発するよう依頼すると説明した。
 葬式の直後、数人の老人が手に手に潅木の小枝を捧げて墓に近付き、恭しく墓前に置く姿は、見ていて大変に美しい光景であった。
 広島でのこの出来事は、日本人の性質の、少なくとも親切な面についてはヨーロッパ人の意見をかなり好転させた。私は数年後にこの墓地を訪れる機会があって、かつて発せられた政府の訓令が注意深く守られているのを実際に見ることができた。

引用終わり
posted by 小楠 at 07:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/11064490
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック