2008年02月16日

明治最初のお雇い外国人

赴任の理由と日本最初の電信

英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
 今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。
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引用開始
 1865年(慶応元年)5月、オルコックの後任としてハリー・パークス卿が駐日英国公使として江戸に着任した。パークス公使が最初に手掛けた仕事は現行の通商条約の補足の約定の条項の速やかな実施を促進することであった。パークス卿は約定の条項のうち欧米人の安全に関する条項※の実施について特に熱心であった。・・・・

※・・・航海の安全のための条項、第十一条の「日本政府は、外国交易の為め開きたる各港最寄船々の出入安全のため、灯明台、浮木(ブイ)、瀬印木(障害標識)等を備うべし」があった。
 英公使が特にこの条項の実施に熱心で、しばしば幕府と折衝した事情は、日本が外国と貿易開始以来、日本沿岸で外国船の遭難事故が頻々として起こり、その都度多数の人命が失われたことによる。

 パークス卿は江戸幕府の閣老に対し、航海の安全の問題は可及的速やかに結論を出すよう圧力をかけた。・・・・これに対し幕府閣老から1866年12月7日次のような回答があった。
「灯台の設置場所については正確な実測を行った上でないと決定はできない。しかしその間にも我が方は要求された機器を発注する所存である。灯台の機器三箇所の分については既にフランスへ注文ずみである。それ以外の八箇所の分については装置一式がイギリス政府を通じて入手できるよう貴下の御尽力をお願いする。当方は購入代金の見積りが出来次第発注をする」
・・・・これに関した事務の一切をエジンバラのスコットランド灯台局のダヴィッド&トーマス・スチブンソン兄弟に委任することに決定した。・・・・
スチブンソン兄弟は、私がすべての要求を充たす者であると認めて、私を商務省に推薦し、1868年2月24日付で私は採用通知を受取った。・・・・

 1868年(明治元年)10月の中旬に寺島氏(宗則)が横浜の知事に任命された。氏は英語をよく話し、外国関係の事務に大変理解があるので、日本政府と条約国の代表者の間の有能な仲介者であった。・・・
 日本に在留する最初の外国人土木技師であった私は、来日間もなく各方面から援助を求められる立場にあった。私は灯台技師として日本に赴任したのであったのに、思いがけなく東洋で最初の電信線の架設者となった。
 日本政府は横浜・東京間22マイル(約35.2キロメートル)と、新しく開港した大阪と京都の間に電信線を架設することを決定した。そして私は、その工事に必要な資材と機械をイギリスに注文すること及び電信の工事の施工と、日本人に電信工事及び電信機の操作を指導できる熟練した技術者を獲得するよう命令を受けた。
 電信の機材は1869年(明治二年)9月に到着し、G・M・ギルバート氏の指導監督の下に建設された。ギルバート氏はまた日本人に電信の操作をも伝授した。電信の移入は、刀を振り回す機会を求めていた狂信的なサムライによって数本の電柱を切り倒された事件があったほかは、一般市民から敵意なく受け入れられた。電文は、英文、和文の両方で送受されるが、後者は42の文字を使うので、この要求を充たすため二重に使用できる機器が採用された。
 はじめはいくらか困難があったものの、日本人電信手は文字盤と電鍵の操作を短期間に習得し、1870年(明治三年)の初めには既に公衆電報の取扱いが始められていた。
 私は帝の国で電信線の建設に着手した最初の者であるが、私より先にこの国で電信建設の許可を得た者がいたのである。イギリスから輸入した資材によって電信線が架設されることを聞知したスイス国の領事はハリー・パークス卿に、自分は将軍の政府から日本国内の電信を建設する許可をスイス国のために取得していると通告してきた。

 多分、スイス政府は、日本に革命騒ぎがあった1868年の頃にはこの国がどのように落着くのか様子を見るため、実際に行動を起こさなかったのであろう。それはともかく、ハリー・パークス卿はこの国の状勢の推移について、より正しい見通しを持っていたので、他国の機先を制したのであった。スイス政府から日本の政府に、やはり電信建設の申し入れがあったに違いない。このことで外交上の紛糾を経験した日本政府は、1868年からはいかなる事柄にも外国の支配を許さず、したがってそれまでの合意事項は廃棄した。オーストリア政府も以前に電信機械の一式と大量の電線を供給した。それらが幕府の倉庫に格納されているのが見付かったので、この機材は私の部下たちによって、東京の皇居やその他諸官庁間の通信線に使用された。
 約100マイル(160キロメートル)に及ぶ二箇所の日本最初の電信線が核となって今日の電信路線の延長が実現した。電信事業は、はじめ政府の別々の省の管轄下において進められたが、後一つの省に統一された。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
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