2008年02月15日

イタリアの岩倉使節報道

欧米が見た岩倉使節団8

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。今回はイタリアでの新聞報道をいくつか抜粋してみます。
写真はフィレンツェ アルノ河の景(久米美術館蔵)
shisetsu08.jpg

引用開始
1873年5月8日〜6月3日 シルヴァーナ・デ・マイヨ
フィレンツェ『ラ・ナツィオーネ』1873年5月10日

 昨日未明2時40分、日本使節団がストックホルムからブレンナー経由でフィレンツェに到着した。・・・・使節団の到着に際しては、目下ローマに赴き不在の市長に代わって市会議員代表ガルツォーニ侯爵、警察署長、宿泊先の高級ホテル・ラ・パーチェ社主の代理として支配人チェーザレ氏らが出迎えた。
 一行はホテル専用馬車四台に分乗してホテルに向かい、ホテルの玄関では駐日イタリア特命全権大使(公使の誤り)フェ・ドスティアーニ伯爵とともに社主に迎えられ、豪華な客室に案内された。
 大使はじめ書記官と従者全員が洋服を着用し、英語とフランス語を流暢に操り、ヨーロッパ式の食事をして、両腕を交差させ体を二つ折に曲げて挨拶をする。この習慣とオリーヴ色を帯びた褐色の肌の色を手掛かりにする以外には、ヨーロッパ人とまったく見分けがつかない。一行の持参した荷物の量たるや膨大で、駅からホテルまでの運搬には、マンテッリーニ運送会社を頼まざるをえないほどであった。使節団は近くローマに向けて出発の見通しである。・・・・

ローマ 『ラ・リヴェルタ』1873年5月16日
 すでに報じたように、昨夕クイリナーレ宮殿で日本使節を歓迎して盛大な晩餐会が催された。
 国王陛下は司令官の礼服を召され、マルゲリータ皇太子妃と腕を組まれて大饗宴の間に入られた。皇太子妃はこの上もなく優雅で華やかな明るいバラ色の衣服をまとい、華麗なダイヤモンドで装いを凝らしておられた。
 大使たちの短い紹介の後、国王陛下はテーブルの中央に着席された・・・・
 宴会後、招待客は黄色の大広間でうちとけた会話のひとときを過ごした。日本の大使たちは外交官の礼装姿であったが、スウェーデンやその他の国での叙勲があったにもかかわらず、いっさい勲章を佩用していなかった。彼らは英語にきわめて堪能であるが、そのうちの最年長の者は例外であって、通訳を介して陛下や両殿下と言葉を交わしていた。
 日本人はマルゲリータ皇太子妃や女官たちと長いこと話をしていた。女官たちは全員英語ができたからである。日本人はイタリアの魅力のとりことなり、終始わが国を褒め称え、熱烈な賛美者である。・・・


ローマ『ラ・リヴェルタ』1873年5月17日
 日本使節を歓迎してクイリナーレ宮殿で催された晩餐会について、新たに詳しい情報を入手した。
 すでに報じたように、宴席ではマルゲリータ皇太子妃の席が岩倉大使の隣であった。両者の間のやや後方に置かれたストゥールに、在日イタリア公使館所属の日本人通訳吉田(要作)氏が腰かけていた。かれは、宴会中に皇太子妃と大使の間で交わされたきわめて活発な会話の通訳を務めた。
 岩倉は貴族の第二位の位階に属する。岩倉は年の頃五十歳前後で、背丈は低いが恰幅がよく、狙撃兵のようだ。山城の出身であるが、数年来江戸(東京)に居を構えて、妻を娶って子女八人に恵まれた。
 はなはだ奇妙なことに、日本の外交官は自国の固有な装いではなく、刀と手袋をも含めヨーロッパの外交官と同様な服装をしている。
 使節一行はホテル・コスタンツィで二十室を占めている。一日三食、朝はコーヒーとミルク、正午に豊富な昼食、六時半に夕食をそれぞれとる。・・・・
 
ヴェネツィア『ラ・ガゼッタ・ディ・ヴェネツィア』1873年5月28日 
 すでに報じたように、昨日、日本使節一行がヴェネツィアに到着した。特別仕立てのサロン付き王室専用車二輌でローマから直行し、全権公使フェ・ドスティアーニ伯爵閣下と海軍士官カリーニ氏が同行した。駅頭には日本総領事、副知事、王国警察署長らが出迎えた。それぞれ日本国旗を立てたゴンドラ六艘に分乗して、宿舎に向かい、ホテル・ニューヨークに投宿した。・・・・フェ・ドスティアーニ伯爵はラ・ルーナ・ホテルを宿舎とした。同伯爵は国境まで使節団に随伴し、その後北イタリアにおける養蚕と絹織物工場の視察・研究のために来伊中の日本農・養蚕業代表団の一行に合流することになろう。 

ヴェネツィア『ラ・ガゼッタ・ディ・ヴェネツィア』1873年5月30日
 昨日、日本使節団は在ヴェネツィア総領事の案内でパラッツォ・ドゥカーレとサン・マルコ大聖堂を訪れ、この特異な都市の全貌を掴もうとして高い塔に上った。その後公園に赴いた。国王知事の訪問を受けたので、答礼の訪問を行った。今朝一行は、日本に関する数々の記録が収蔵されているフラーリ総合古文書館とセミナーリオの柱廊見学に赴き、多大な関心を寄せてこれらを調査した。かつて本紙上で取上げられたように、フラーリ古文書館所蔵文書によれば、1585年ローマからヴェネツィアにやって来た伊東満所率いる使節が最初のヨーロッパ来訪使節であり、ついで1615年には支倉(支倉六右衛門=常長)の主導する第二の使節団が到来した。両使節の関係文書はすでに部分的に刊行されているが、当使節団はその全面的な収集を要請したとのことである。
 なおセミナーリオの柱廊には、1585年に愛徳信心会を訪問したまぎれもない最初の日本使節を記念した大理石の碑文がある。・・・
引用終わり
posted by 小楠 at 07:13| Comment(1) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
初めてブログ拝見します。
珍しいイタリア側のこのような埋没した資料、たいへん興味深く読みました。手間隙掛けてのサイトアップは非常にありがたく、ご苦労様です。
Posted by 素浪人 at 2008年12月08日 22:34
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