2008年02月13日

岩倉使節団ドイツ訪問

欧米が見た岩倉使節団6

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。
写真は国立公文書館蔵ベルリンのコーニングス宮殿
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引用開始
1873年3月7日〜28日、4月15日〜17日、5月1日〜8日ウルリヒ・ヴァッテンベルク
 日本使節団の来たるべき到着はいくつもの新聞で報じられていた。・・・
 プロイセン訪問の当初、以下のように新聞紙上に報道された。
「日本使節団は今朝ベルリンに到着するはずである。すでにハーグでカンツキー参議官が使節団に応接した。オランダ国境のベントハイムでは、陸軍第七軍団参謀長フォン・ライト大佐、レールダンツ陸軍中佐、L・クニッフラー――前長崎領事、現デュッセルドルフ勤務――などで使節団を迎えるであろう。これらの人びとは使節団のプロイセン訪問期間中、接待係の役割を果すことになろう。旅行に際しては、鉄道会社の特別室が使用され、全旅行費用は政府負担とされている。ベントハイムから使節団は著名なクルップ工場(製鋼)を訪問すべく、エッセンにおもむくはずである。ベルリンでは使節団は費用は政府負担でオテル・ド・ロームに宿泊し、一週間ベルリンに滞在するであろう。使節団一行の服装はヨーロッパ風である」。

 新聞記事では使節団員の氏名を以下のように挙げている。すなわち岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳と。さらに挙げられている氏名は、田辺太一、何礼之、栗本貞次郎、杉浦弘蔵、安藤太郎、久米邦武、田中光顕、富田鉄之助、医者として福井順三であり、そして氏名は挙げてはいないが、会計係、通訳(速記者を含む)、世話係などを掲げている。また新聞は、使節団が条約改定のために派遣されたが、しかしこれはすでにワシントン滞在中に断念し、いまは使節団は、日本において生じた情勢変化について説明すべく、ヨーロッパの主要な宮廷を訪問している、と報じていた。・・・・・

もちろん、宿舎にはベルリン最高級のグラン・オテル・ド・ロームが選ばれたが、それは滞在中の特別の配慮であり、久米が以下のように述べているように使節団を大いに喜ばせた。「其接遇の厚き、他の諸国に超えたり。」
 二日後の三月十一日、皇帝ヴィルヘルム一世の謁見がおこなわれた。新聞はすべて同日と翌日に公式コミュニケを報道した。日本使節団は四頭立て、六頭立ての馬車で送られたが、木戸は「今日のような美しい馬車をいずこの国においても見たことはなかった」と書いている。謁見は宮殿の「白の間」で行われた。そこは1862年にすでにヴィルヘルム一世が当時プロイセン王として竹内使節団を謁見した場所であった。皇帝以外に、宰相ビスマルクなどの高官が列席した。「皇帝は起立し帽子をとって使節団を謁見した。」と公式コミュニケは報じていた。挨拶は日本語とドイツ語でおこなわれ、日本語への翻訳は有能な学生青木周蔵によって行われた。青木はドイツ駐在公使に、最後は外務大臣になった人物である。

ビスマルクの演説
 席上、ビスマルクはきわめて重要な演説をおこなった。彼は自分の青年時代について若干触れたのちに、以下のような指摘を日本側に示した。すなわち、世界のあらゆる国家がお互いを礼節をもって交わっているというが、これは虚構である。現実には強国の政府が弱小国を圧迫している。彼ビスマルクが幼少のころ、プロイセンは弱小にして、自分はそうした状態を変えようと常に願ってきた。万国公法は諸国家間の秩序維持を目的としているが、強国が他国と紛争を生じたならば、強国は自国の目的に適合するかぎりで、それにしたがって行為するのであり、さもない場合には自らの力を用いるであろう。弱小国は常に不利な立場に立たされているのである
 このことはプロイセンに該当するところであったが、プロイセンは国民の愛国主義の助けによってそうした事態を変えることができた。今日、諸外国は最近の諸戦争のゆえにプロイセンを憎悪しているが、プロイセンは自国を守るためにのみ戦ったのである。イギリスやフランスは自国の植民地帝国を拡大しつつあるので、これらの諸国が礼節正しく立ち現われようとも、信用することはできない。日本はプロイセンがつい最近までそうであったような状況におかれているがゆえに、プロイセンと日本はお互いに誠意ある接触を保つべきである、とビスマルクは論じた。

 この注目すべき演説の内容は、どこまで熟知されているであろうか。久米は上述のように記述し、『実記』第五八章をこの演説をもって末尾としている。ビスマルクの書類・演説・書簡全集を調べてみたところ、第八巻にこの演説を見い出せる。しかし、この巻の序文の言葉で、編者は以下のように記している。ビスマルクの演説を書き記したのは多数の日本使節団員であり、ハンーナマという人物(おそらく畠山)がのちにそれを公表した。そして当時、岩倉使節団の重要メンバーであった伊藤博文が、1901年12月に総理大臣としてベルリンを訪問した際に、28年前のビスマルク演説が浮上し、「新たに発見された演説」としてドイツの諸新聞に掲載された。こうして、この演説はビスマルク全集に組み入れられたのである、と。この演説の内容の正確さについて疑うことは、日本側資料が確証しているように必要はないが、しかしそれに相当するドイツ側資料は明らかに存在していない。
 ビスマルク以外に、オイレンブルク伯が使節団を歓待し、三月二十六日に招待した。これは新聞に報道されているが、久米によっては記述されていない。これらすべての公式行事以外に、木戸日記からわかるように使節団は遠近からの到来者を接待したり、ドイツ憲法(1871年)――当時のヨーロッパでもっとも斬新と思われていた――に関する論議に参加したりして多忙であった。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
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