2006年08月06日

東京裁判の正体2

 菅原裕著「東京裁判の正体」の中から特に私がこの掲載の主旨に必要と考える部分だけを引用し、東京裁判史観からの脱却を奨めたいと思います。
 東京裁判はポツダム宣言に従って行われたもので、その当時の国際法に従って審理されると考えるのは当たり前のことですが、この裁判だけに適用するマッカーサーのチャーターで拘束されたと言うことが、復讐のためのリンチでしかなかったと批判される所以でしょう。
 菅原氏は東京裁判で元陸軍大将荒木貞夫氏の弁護人として法廷に立たれた方です。
引用開始
【侵略決定の困難】
 相互に対等の独立主権を持っている国家間の紛争の解決方法は、互譲か戦争のほかにはない。一国が他国の政策を批判、干渉することは独立国間においてはあるまじきことで、同様に戦争についても、一国の開戦行動を、他国において「侵略」の烙印を押すことは、独立国の本質を無視することになる。
 これが従来国際間において侵略なりや否やは、その国自体が決定するほかはないとされてきた所以である。本裁判所において検事側が金科玉条とした不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)の締結にしても、ケロッグ氏自らつぎの声明をしているのである。
 「自衛権は関係国の主権下にある領土の防衛だけに限られてはいない。そして本条約のもとにおいては、自衛権がどんな行為を含むかについては、各国みずから判断する特権を有する・・・」
 すなわち防衛の範囲、方法の制限ができないのが、従来の国際社会の通念であり、実情である。いまもし、不戦条約によって、戦勝国が勝手に敗戦国に「侵略」の烙印を押すことができるとすれば、自衛とか防衛戦争とかは、たんなる戦勝国の戦利品にすぎないことになりはせぬか。窮鼠に対する猫の詰問が、どうして文明世界の平和建設の鍵となり得るであろうか。

【戦勝国の処罰権】
 普通、国際法上の犯罪といわれる海賊行為や奴隷問題等は、同時に各国内刑法の対象となり得るもので、純粋な国際法の犯罪ではない。これに反して、侵略戦争に関する罪は、純然たる国際法違反でなければならぬ。
・・・略・・・
 平和に対する罪を裁く裁判である以上は、戦争の結果たる勝敗とは関係なしに考えられなければならぬ。戦争の結果は必ずしも、正しき者が勝つことにきまってはいない。侵略戦争をしかけた者が勝つこともあれば、正しい者が負ける場合もある。戦争に負ければ、敗戦による種々の制裁があるが、戦勝の場合はない。
 世界正義の見地からは、不正な戦争をやって勝った者に対してこそ、国際裁判による制裁が加えられるべきである。いずれにせよ、戦争の原因や方法の当、不当を審判することは、戦争の結果と関係のあるはずがない。したがって被告は敗戦国民だけに限るべきでなく、また審判する者も、戦争に関係のない第三国民が理想であるが、もし当事国も入れるとすれば戦勝国民だけではなく、敗戦国民も加えなければならぬ。・・・略・・・
この点についてパール判決書にはつぎの如く記載されている。

 「勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従って、いわゆる裁判を行うことは、敗戦者を即時殺戮した昔と、われわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである。かようにして定められた法律に照らして行われる裁判は、復讐の欲望をみたすために、法律的手続きを踏んでいるようなふりをするものにほかならない。それはいやしくも正義の観念とは全然合致しないものである。かような裁判所の設立は本質的に政治的目的に対して、司法的外貌を冠せたものである。かくの如く儀礼化された復讐はたんに瞬間の満足にすぎないばかりでなく、究極的には後悔を伴うこと必至である。国際関係において、秩序と節度の再確立に実質的に寄与するものは、真の法律的手続きによる法の擁護以外にはあり得ないのである」 

【戦勝国の宣伝】
・・・賢明にして高潔なる連合国はカイロ宣言の冒頭に「日本国の侵略を制止し、かつこれを罰するため、今次の戦争をなしつつあるものなり。右連合国は自国のためになんらの利得を欲求するものに非ず、また領土拡張のなんらの念をも有するものに非ず」と明記し、さらにポツダム宣言において、「占領統治は世界の平和、安全、及び正義の新秩序を建設するため無責任なる軍国主義者を世界より駆逐するにある」と宣言したのである。したがって占領目的達成のための東京裁判としても世界の平和、安全および正義の新秩序建設のために「峻厳なる正義」に基いて審理されなければならなかった。
 しかるに事実は、全然これを裏切って、連合国のために正義を無視した裁判を敢行したのであった。・・・わが国民が彼らの宣伝や、無責任なるわが国一部人士の言論に操られて、この裁判の実体を見あやまり、ひいては、わが国体や伝統を嫌悪し、大東亜戦争の本質を曲解し、自ら奴隷国民に堕しつつある現状にかんがみ、本裁判の真相を伝え、同時に世界人に対しても、国際社会の法的正義確立のために、本裁判を反省し再検討することを求めようとするものである。

【終戦の条件】
 太平洋戦争の終結は、1945年7月26日の連合国側のポツダム宣言の発表に対する同年8月14日の日本国の受諾の通告によって実質的に決定し、9月2日の降伏文書の調印によって、その形式を具備したものである。
 すなわち通俗の取引用語に従えば、連合国の条件付申込みがあり、これに対して日本国が承諾の旨を答えて、契約ができたのである。しからばその条件とはいかなるものであるか。
 同宣言第五項には「吾等の条件は左の如し、吾等は左の条件より離脱することなかるべし云々」と規定し第六項以下に相互の権利義務を列挙している。これを解説すれば、次の如くである。(詳細ページ参照)
 ポツダム宣言は以上(参照ページ)のような相互の権利義務を規定しているにもかかわらず、戦勝国軍の軍事占領に圧倒されて、日本国民の大部分が、故意か無知か、日本国軍の無条件降伏を、あたかも日本国の無条件降伏なるが如く曲解し、日本国民は占領軍に対してなんらの発言権なきがごとく錯覚していたようであるから、とくに、これだけの権利を包含する有条件降伏であったことを、まず認識すべきである
引用終わり。

 日本のマスコミもTVに出る一部軽薄な評論家も、日本の降伏時の条件には触れず、簡単に「無条件降伏」と言う言葉を使いますが、これが多くの日本人に日本国全てが占領軍の言いなりになっても仕方が無いような錯覚を与えています。また占領軍はそのように振舞ったのですが、それが違法行為であったという認識を日本人が持たなければならないでしょう。
posted by 小楠 at 08:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の東京裁判
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