2008年02月12日

岩倉使節団の仏国の印象

欧米が見た岩倉使節団5

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。
写真は久米美術館蔵ヴェルサイユ宮殿のオペラ劇場
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引用開始
1872年12月16日〜1873年2月17日 リチャード・シムズ
 フランスは使節団にいかなる印象を与えたか。久米の『回覧実記』から判断するかぎり、結論から先に言えば、フランスは今もって強国とみなされており、その国威は最近の普仏戦争での敗北によっていささかも損なわれてはいないと日本人の目に映じたということである。1870〜71年のフランスの敗退は、久米によると、なんらかの根本的欠陥によるものでもなければ、たしかに一般兵士の戦闘心の欠如によるものでもない。むしろそれはドイツと比べて相対的に兵士の数が少なかったこと、そして将校団の質が劣っていたことによるのである。 これら二つの欠陥はいずれも取り返しのつかない類のものではない。そしてドイツから学ぼうとするフランス人の意欲が指摘されるのであるが、それはヴァンセンヌ訪問の途次、日本人が「かつてフランス人は他国から学ぼうなどとは思ってもいなかったが、きわめて残念なことだが、今やそうしなければフランスはフランスとしてとどまることはできないであろう・・・」ということをはっきり理解したときのことであった。こうした感想は使節団の心を強く打ったにたがいない。一行もまた日本固有の性格を維持しながら、西欧から知恵を借りる必要を痛感していたからである。

 フランスが今もって尊敬に値すると思わせたものは、フランスの順応の素早さへの期待ばかりでなく、その経済的地力にもよる。久米によれば、ドイツから押し付けられた戦争の賠償金が短期間にまた楽々と返済されたことにイギリスは驚き、ドイツは拍子抜けしたが、このことはフランスの財政的・商業的地位が健全であるとともに、フランスが特に経済学と商法の分野で有能な人材を豊富に備えていることをあらためて確認させることになった。別の箇所で久米はパリをロンドン、ニューヨークと並んで、商取引における世界の三大都市のひとつと書いているが、彼がフランスはイギリスに劣らないと主張しつづけたのは、主としてパリこそヨーロッパにおけるファッションと工芸技術の中心とみなしていたからである。イギリスが大量生産で一歩先んじていることを認める一方で、彼はそのイギリスも優雅さと繊細さの点でフランスに太刀打ちできないでいることを強調した。彼は使節団のフランス訪問記の「総説」で「イギリスの工業は機械に頼る。フランスでは人間の技能と機械が調和している」と書いているが、ここにも彼のフランスへの称賛の念がはっきり見てとれる。


 久米は他の理由からもフランスを高く評価していた。彼の主張では、イギリスは経済的には豊かであるが、にもかかわらず洗練さの点でフランスに一歩を譲る。また彼はドイツはいくつかの点で高い水準に達しているとの見方を伝えているが、それでもフランスがもっとも文明的な国であることにかわりはないと主張している。フランスの絵画、彫刻、宝石、時計、ボタン、衣服のスタイルが得ている名声のおかげでフランスは洗練と文明の極致とみなされているばかりでなく、フランス語はヨーロッパの貴族社会の共通語でもあった。その上、フランスはこの卓越した地位を実に二世紀以上にもわたって保持しつづけてきたのである。・・・
 しかしながら、大久保はフランスを、イギリスやアメリカと同様、日本が範とするにはあまりに進み過ぎているとみなしていたことに注意しておかなければならない。かわりに、パリから西徳二郎に宛てた手紙で、彼はドイツやロシアのほうが日本にとってよりふさわしいモデルになるであろうと述べている。・・・・

 使節団が学んだかも知れないと考えられるもう一つの教訓は、植民地帝国を獲得することが望ましいということである。久米の記述によれば、植民地のおかげでフランスは原料を有利に入手できるようになったのであり、彼はフランスにとってのアルジェリアの地理的位置関係は、日本にとっての朝鮮のそれに類似すると述べている。しかしながら、その後1873年の朝鮮をめぐる論争において、岩倉と大久保が日本の国権拡張論者を打倒したことを考えてみれば、この教訓は時期尚早であったのかもしれない。・・・・

 結論としては、岩倉使節団のフランス訪問は条約改正問題に対してもキリスト教問題に対しても、たぶん限られたものであったにせよ、一定の影響を与えた。しかしながら、使節団の主要な意義は、一般に、使節団が新生日本の全般的な印象を作り出したことにあるとされ、とりわけ使節団が西欧文明とその日本への適用可能性について学んだことにあると見られてきた。岩倉使節団の全般にわたる経験そのものが実際非常に貴重なものであったが、フランスにいた時期もまた当然重要であったと推察することは理にかなっている。にもかかわらず、その影響のほどを計測することは不可能に思われる。たとえば、使節団がフランス政府に与えた印象について考えるならば、レミュザ(外務大臣)が日本の文明化への努力に関して岩倉を祝福したことは、すでに好ましいイメージが定着していたことの証拠とみなすこともできよう。しかしながら、このようなイメージは明らかに日本の使節団そのものによって作られたというよりは、日本の進歩に関して東京のチュレンヌが送った好意的な報告や、日本の大改革にフランス人が中心的な役割を演じていることからくる満足感によって作り出されたものである。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
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