2008年02月08日

岩倉使節の英国内視察

欧米が見た岩倉使節団3

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。今回のイギリスでは、国内視察に三人のイギリス人役人を伴っています。正式接待役として陸軍少将ジョージ・アレクサンダー、通訳としてウィリアム・ジョージ・アストン、そして休暇で帰国していた駐日公使のハリー・パークス卿が同行しました。
写真は本書表紙
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引用開始
1872年8月17日〜12月16日 アンドルー・コビン
 北部地方の旅行の始めに、岩倉と彼の随員はリヴァプールとマンチェスターで十日間過ごした。二つの都市では、彼らは視察や公式の歓迎会など苛酷なスケジュールで多忙な毎日であった。その残忍ともいうべき旅程のペースは、一週間もたたないうちに、すぐに彼らを疲労困憊させた。たとえば、彼らがマンチェスターに到着するとすぐ、一行はシェリダン・ノウル劇団が王立劇場で公演する芝居「恋愛ごっこ」(ラブチェイス)に招待された。久米はその時の模様を次のように回想している。
「我々一行が最大の善意で招待されたのは確かだと思うが、毎日、足をひきずりながら工場見学をすませた後で、しかも宿舎に到着して身体を洗い、漸くくつろごうとした途端に、再び身体をひもで締め付けるように窮屈な洋服に束縛されるのは耐え難いものであった。しかも私などまったく理解できない芝居を見なければならない苦痛を味わったのである」。

 たしかに久米がいうように、かれらが身に着けていた洋服はいかにも着心地が悪そうであった。イギリス人ジャーナリストは、いかに使節たちが「彼らにおよそ似合わない何の取り柄もない平凡な洋服」を着ていることかという記事を書いていた。そしてついに彼らの多くは、退屈な劇場へ行くよりも、むしろ「敗北」を認めて、宿舎のクイーンズホテルで静かな夜を過ごす選択をしたのである。
「英語を理解できる二、三の者だけが劇場へ行く決断をした。そして、私は宿に残ってその日の見聞記を書き止めた」と久米は告白している。
 岩倉使節団のランカシャー都市部視察の大きな特徴は、その集中的な工場訪問にあったといえよう。マンチェスターに向う列車の中で、パークスは岩倉や副使たちに「ランカシャーは世界のどこよりも沢山の工場があるといわれている」と明言した。彼はまた、「日本が将来、世界と交易し新しい産業を盛んにしていくのであれば、貴方がたがこれから視察する予定の地方と比べてもっとも重要な意義を持つものなのだ」と自信たっぷりに話した。
 しかしながら、数カ月前に、使節団がすでにアメリカで経験した産業視察のために、ランカシャー地方の多くの工場群がかれらに与える衝撃を、幾分、弱めることになってしまったことは事実である。・・・・


 使節団が工場を巡回訪問しているうちに、イギリスの強大な産業力の大部分は、まったく近年の発展の産物であることに気づくようになった。大久保は日本に宛てた書簡で、イギリスの都市で見た貿易と工業の巨大な富は、蒸気力が発明されて以来、せいぜい、ここ五十年のあいだにもたらされたものである、と書いている。『米欧回覧実記』で久米は「ヨーロッパの今日の繁栄は、大きくみて千八百年以後のことであり、顕著にこの現象をもたらしたのは僅かに四十年にすぎない」と公言した(『特命全権大使 米欧回覧実記』)。そして彼はこの観察が「英国内の工場巡覧と工場創設の記録からあきらかである」と指摘し、「スコットランドのグラスゴーは、八万に満たない都市から人口五十万の大都市になったのは、過去四、五十年来のことである。その経過をみてきた古老の話によれば、市内の人口は、最初の発展の始めには、事情がよく理解できず殆ど狂乱状態であった」と述べている。
 実情がそうであれば、使節たちが日本の急速な工業化を心に思い描くことは可能であった。そしてそれは、明治国家の基盤を強化することを精力的に推進してきた大久保の抱いていた結論でもあった。この点で、ほぼ六十年後の1920年代に、かつて、マンチェスターのグレー紡績工場を訪問した岩倉使節団のことを思い出して、久米が語った次のような感想をここに指摘する価値があろう。
「第一次世界大戦中、日本は優れた織物を製造してイギリス人を驚かし、最近では、日本の綿布がイギリスの市場を侵して、その不公正な競争に対して彼らの抗議が続出しているほどである」。しかし、
「我々一行がイギリスを視察したとき、ヴィクトリア朝英国民の自信は大変強くて東洋人は彼らと競争することなど不可能だと信じており、日本の紡織技術が将来、イギリス人を脅かすようになるとはかれらは夢にも思わなかった」と回想している。・・・・

 工業地帯の視察は、イギリスでもっとも環境汚染の激しい地域に連日彼らを曝し続けたわけで、久米の『回覧実記』は、これらのイギリスの工業都市で経験したスモッグのありさまを活写している。たとえば、マーシー河の南岸より遠望したリヴァプールの様子を彼は次のように記した。
「空は石炭の煙が濛々として地上より二、三百尺の高さに立ち上って常に暗い。我々の案内人は、市中の人々はこの暗黒の空気を吸って暮らしていること、大量の煙が発生するので市民の平均寿命は、ここでは上級階層の人で三十五年、中級で二十三年、そして下級の労働者階級は十五年に過ぎないと説明した」。また、マンチェスターについても、彼は「全市石炭の煙、天を掩って空は暗黒である」と書いている。グラスゴーで使節一行は珍しく雨天に出くわさず驚いたが、日光を見る日は殆どなかった。雨なく薄曇りの天気が数日続いたが、市民に日本の使節がこのような好い天気を土産に持ってきたのだとお世辞をいわれて一行は戸惑ったという。
 一連の工業地帯の視察が、岩倉の健康を損ねたのは誰の目にも明らかになった。そこでパークスは、一行のエジンバラ滞留に続いて、スコットランド高地(ハイランド)の景勝地を回って静養するように勧めた。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
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