2008年02月07日

文明開化探究の第一歩

欧米が見た岩倉使節団2

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。その中から興味深い部分を引用してみます。
写真は女子留学生
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引用開始
1872年1月15日〜8月6日 アリステイア・スウェイル
 使節団はサンフランシスコに上陸したが、この都市はアメリカの東洋諸国とのフロンティアであり、同時にまた中国人に対する嫌悪の中心でもあった。使節団の訪問に関するランマンの記録は、『アメリカにおける日本人』と題された大部な研究の最初の部分であるが、そこでは日本人の最初の訪問地で彼らに対する最大の好意が寄せられたことを強調している。同市の主要な市民たちが準備した大規模の晩餐会の前に、グランド・ホテルの外でウィリアム・アルヴォード市長の主宰のもとに正式の歓迎会が開催された。同市の芸能人によるセレナードの演奏に迎えられた使節団の指導者たちは、彼らの部屋のバルコニーから群衆に演説するよう求められた。このスピーチは暖かく迎えられ、何度か歓声によって中断された。使節団はまた、商業局の長R・B・スウェインや新聞業界の主だったメンバーに紹介された。使節団に惜しみなく与えられた歓待のクライマックスは、一月二十三日の夕、グランド・ホテルで開催された正式のレセプションであった。市長、アメリカ駐日公使チャールズ・E・デ・ロング、そしてさまざまな商業的・社会的利益を代表する大勢の人々が出席していた。主催者による乾杯の辞に応えて、伊藤博文と岩倉がスピーチを行ったが、拍手喝采によって中断され、「耳をつんざく」ような拍手でお開きとなった。・・・・

 使節団がアメリカの土を踏んだその瞬間から、異常ともいえる歓待を受けた理由を述べなければならない。たしかに、使節団が到着する以前から日本人は中国人とは別の国民であると考えられていた。サンフランシスコにおけるデ・ロングの演説からしても、平均程度の知識しか持ち合わせていないアメリカ人ですら、ペリー提督による日本開国はアメリカ外交の大成功だとみなしていた。そしてこの「啓蒙された」外交がついに1868年の「革新」(維新)に結実したというのである。
 五人の少女をアメリカで教育を受けさせるために使節団に加えたことは、「東洋」の女性に対する侮辱的かつ野蛮な仕打ちという一般アメリカ人の偏見を取り去る努力に、新明治政府がコミットしていることを示すものであった。「女性の文化のための優れた学校」への言及が、使節の日本出発まえに天皇の使節団への御言葉にあったが、ランマンはその使節団に関する記述の中で相当のスペースをこの問題に割いているのである。

 これらすべての点において、日本人は自分たちの見解が中国人のそれとまったく異なっていると描き出したのである。既述のように、中国人は、近代文明、とりわけ近代技術の恩恵と自由な通商、それに加えてキリスト教の光を強情にも拒絶するという過ちをおかしたとアメリカ人の間では考えられていたのである。日本人がイニシアティブをとって、中国と比べてより肯定的な日本観を効果的に作り出したことは、サンフランシスコの『デイリー・イヴニング・ブラテン』からの次の引用によっても示される。
「こんにち日本は、その以前の境遇をすべて考慮に入れると、地球上もっとも進歩的な国である。・・・・中国人と違って、日本国民はそれが良いと分かれば衣服、食べ物、産業、そして生活様式を容易に変えていく。一民族として彼らは行動力があり、高位の人からもっとも下位の人まで、非常に知性的であり、性急と思われるほど勇敢で、清潔な習慣の持主で、個人的な名誉の高度の感覚をもち、例外なく礼儀正しい。そして何よりも、外国人とりわけアメリカ人に対して好意的である」。
 したがって、合衆国議会が一月三十日(実際に、使節団がサンフランシスコを発つ前に)、使節団の滞米中の歓待や他の経費のために五万ドルの歳出を認めたのは、おそらく驚くに値しないであろう。使節団は心からの感謝をもってこれを受取ったが、・・・・
 使節団はまた、議会からの恩恵の一部をアメリカ国民に対する返礼として用いた。限られた地域であったが、シカゴのジョセフ・メディル市長に、同市の大災害からの復興の助けになるようにと、五千ドルを寄付したのである。・・・・

 実業界や知識人から寄せられた好意的な歓待とは別に、ワシントンにおける政界の歓待は、さらにいっそう心温まるものであった。ワシントンの知事ヘンリー・T・クックの正式の歓迎を受けたのち、一行は馬車に乗ってアーリングトン・ホテルに向った。そこでU・S・グラント大統領の正式のレセプションが三月四日の午後に開催され、岩倉が天皇から大統領に個人的に宛てられた書簡とともに彼の信任状を提出した。大統領グラントからの返答は、すでに以前にみたテーマを繰返すものであった。
「紳士諸君。この国とわが政権が、合衆国が最初に外交的・商業的交流を樹立した国からの使節団を歓迎する、歴史上初の国として特記されるであろうことを深く満足するものであります。貴国がこの使節団を派遣するにいたった目的は、貴国の君主の知性と明察を示すものであり、この目的を達成するために貴殿たちが選ばれたことは貴殿たちの名誉となるものであります。いかなる国といえども他の諸国から孤立して生存できる時代は、はるか昔に過ぎ去ったとみなさねばなりません。どの国も、その繁栄と幸福の享受は、政治学のみならず、人類の威厳に、国富に、そして国力に貢献する他の学芸の相互の発展をもたらすことに依存するのであります」。
 グラント大統領は、天皇の書簡で提起された事柄(日米間の通商関係を再交渉する問題が間接的に含まれていた)について討議することを望んでいると使節団に告げた。・・・・
 この行事が終り、岩倉とその随員は日本式のやり方でブルー・ルームを辞した。すなわち、お辞儀をしたまま頭をそらすことなく後ろ向きに部屋を出たのである。このように珍妙な習慣はアメリカ人を驚かせたが、その全体的な効果は、失礼というよりも、むしろ異国趣味の楽しい雰囲気をかもし出したのである。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
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