2008年02月06日

米国人の明治日本人観

欧米が見た岩倉使節団1

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。その中から興味深い部分を引用してみます。
写真は岩倉具視と四人の副使、左から木戸、山口、岩倉、伊藤、大久保
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引用開始
1872年1月15日〜8月6日 アリステイア・スウェイル
 アメリカ人たちが、これほど珍しい一行をどのように眺めたかというと、一行が受けた歓待はほとんど例外なしに暖かく熱烈なものであった。・・・・
 アメリカにおける日本人の待遇に必然的にかかわる要因は、それ以前に到来していた中国人との関係であった。アメリカと中国人との間には、日本人との関係よりも長い関係があり、一方ではアヘンと宗教(キリスト教宣教)の高圧的な輸出、他方では安価な中国人労働者のアメリカ西部諸州への移動にもとづいた関係であった。この初期の経験は「東洋人」についての一定の先入観をアメリカ人に植え付け、それがいくつかの重要な点で日本人の境遇にとって不利な結果をもたらしたのである。

 たとえば、一つの重要な点を挙げると、日本人は東アジアの貿易網に比較的遅れて参入したので、前もって警告を受け、またあらかじめ準備ができていたのである。1853年はペリー提督、1854年にはハリス総領事によるアメリカの開国要求に対応する責務を負わされた日本の指導者たちは、それに先立つ50年間の中国における国際関係の結末に精通しているという利点があった。とりわけ、アヘン貿易の破壊的な影響と、国際協定の侵害に対して西洋諸国が厳しい罰則を科する力をもっていることを日本の指導者は知っていたのである。日本は幕藩システムの弱体化にもかかわらず、中国と比べてはるかに強固に統合された国家であり、中国よりも一貫した、あるいは少なくとも建設的な対応をすることが出来たのである。当時日本国内の極端な排外分子は、(外国への)いかなる譲歩をも紛れもない裏切り行為とみなしていた。しかし、伊井直弼のような幕府の高級役人は譲歩しながらも、可能な範囲で国益を守るための重要な条項を外国に認めさせる術を心得ていた。関税率や治外法権に関して外国人に特権的な待遇を保証するという厄介な約款は、結局受入れることになったが、外国人が条約港を離れて旅行する権利は厳しく制限されたし、宣教師の活動は問題にすらされなかった。・・・・
 このような積極的な施策は、欧米の外交官サークルのあいだに日本に対する友好的なイメージをつくりだすうえで大いに影響があった。しかしながら、カリフォルニアで中国人とヨーロッパ系アメリカ人との間に生じた苛烈な相互作用の結果、中国人に関する否定的なステレオタイプが固定するにいたり、中国人に対する不安がほとんど自動的に一般市民の草の根レベルにおいて日本人にも向けられることになるのである。

 中国人は特に二つの「罪」を負っているとされた。第一に、「近代文明」の礎石とされた「自由貿易」の恩恵を中国が頑強にも拒否したこと。もうひとつは、中国人が絶え間なくキリスト教を罵倒し、しばしば排外的な暴動の狂信的行為を繰り返したことである。それは西洋人の意識を、より基本的で普遍的なレベルで傷つけた。これに反して、幕府は貿易自体には反対でないことを明らかにしたし、このことは1868年、維新政府が樹立されたのちも繰返し述べられてきたのであった。・・・・

 1860年から1880年にいたる米中関係と日米関係のパターンを手短に比較してみると、この時期にアメリカには二十万人の中国労働者がいたのに対し、日本からの永住移民は三百三十五人にすぎなかった。19世紀後期にサンフランシスコに上陸した少数の日本人移民に対し、新聞はだいたい好意的な言葉を呈し、「妻子と新しい産業」を持ち込んだ「洗練された紳士」と評した。
 とりわけ、カリフォルニアの人口稠密な地域において白人上流階級の間に不安をつのらせたのは、中国人労働者の数が多かったということであったということができよう。
 カリフォルニア州の発展を研究した同時代の歴史家ヒューバート・ハウ・バンクロフトは、中国人を見くびった調子で描くことを自制できなかった。
「たとえ彼らが白色人種から離れてうち解けない性行を示さなかったとしても、彼らの皮膚の色、嫌悪を催す顔つき、小柄な体格、理解不能な言葉、奇妙な習慣、異教・・・・が重なって彼らを一般から引き離すことになった」
 これに対して、日本ではそれぞれの外国に対して門戸が解放され、自由に交流したのであり、日本政府が日本からの出移民に関する正式の立法を制定するのは、1885年のことである。中国人移民を排斥する法律が議会を通過してからわずか三年で、このような関係が日本と樹立されたという事実は、日本人が中国人よりも高く見られていたということを如実に物語っている。
 日本の移民が比較的少なかったこととは別に、まったく違った分野、つまり技術と教育の分野で活発な日米交流がおこなわれた。
 維新以前においても、ラトガーズ大学とアーモスト大学のような名門校は、明治時代の指導的な知識人、政府要人の訓練場であった。また流れを変えてアメリカの大学からアーネスト・フェノロサやデヴィッド・マレーのような学者が、日本の指導的な教育機関、とりわけ東京帝国大学で教職についた。岩倉使節団がアメリカを旅行した1872年までに、アメリカの大学で三百名もの日本人の学生が学んでいたが、これはヨーロッパの大学への留学生総計二百二十五人を上回る。日本海軍もまた、アメリカ海軍と長年の関係を維持し、早くも1861年には少数の士官候補生がアナポリスにある海軍兵学校に入学を許された。・・・・
 ちょうどこのころ、日本の社会と文化の最初の観察者がアメリカから日本に到来する。・・・・たしかに、「珍妙」な国という見方が強かったが、より明瞭な日本観の原型が、徐々にではあるが着実にアメリカ人の心に植えつけられていった。ウィリアム・グリッフィスやラフカディオ・ハーンの作品が有名な例だが、ほかにも多数の日本愛好者が同様の活動を続けていた。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
ご無沙汰しております。ずっとこちらに伺う余裕が無く、やっと参ることができ、ちょっと遡って読み始めています。

中国の印象が日本に不利に・・・。オーストラリア人も、中国と韓国と日本は、どうもごちゃごちゃになるようです。子供の学校で「中国について学びます。」といってハングルを書いてみたり、「日本のことについて学びます。」というときに先生がチャイナ服を着てきたり・・・。
いろいろなアジア人と付き合ってみると、むしろ中国だけが特殊ということが多く、中国をアジアの代表のように思われるのはちょっと困るんですよね。
Posted by milesta at 2008年02月16日 14:01
milesta 様
外国人からは中国、韓国、日本人の見分けは無理でしょうね。
日本政府の外交下手も大きな原因とも思います。
milesta 様もそちらで色々ご苦労が多いでしょう、特にお子様の教育などは。
逆に日本人というものには意識が強くなるかも知れませんが。
Posted by 小楠 at 2008年02月16日 17:56
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