2006年07月24日

日独防共協定

近現代史の復習16
 富田メモ問題で中断しましたが、再び近現代史の復習を続けます。
 カテゴリー<近現代史の復習>で、反日、左翼、新聞、テレビから発する嘘、隠蔽、捏造での汚染を予防するため、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【戦線の泥沼化】
 南京陥落後も「第二次トラウトマン工作」による和平交渉の努力を続けましたが、成功せず、近衛内閣はついに1938(昭和十三)年1月15日「国民政府を相手とせず」という声明を出し、蒋介石との和平交渉を諦めました。そして徐州・広東・武漢三鎮を占領し、蒋介石は重慶に逃亡して首都とします。こうして日本軍の戦線は際限なく拡大し、首都南京を陥とせば終結すると考えていた支那事変は、解決の見通しが立たない泥沼と化してしまいます。
 こうした中で、11月3日「東亜新秩序」建設の近衛声明が出され、これは日本・満洲・支那3国が一つの経済圏を作ろうというもので、後に「大東亜共栄圏」に発展しました。
 これに対し、従来より支那の「門戸開放・機会均等」を主張してきたアメリカは反発し、蒋介石政権を公然と支援するようになります。

 【汪兆銘・南京政府】
 蒋介石に共産党と協調するよう働きかけてきた国民党左派の汪兆銘は、
「国民党を内部から破壊せよ」というコミンテルンの秘密訓令を見て共産主義の実態を知り、反共に転じました。
そして汪兆銘は蒋介石に、共産党と手を切り日本と和平を結ぶことを主張します。しかし蒋介石は、西安事件(1936年12月)以後、共産党を受け入れ、対日抗戦に向かっていたため、汪兆銘の説得に応じません。共産党も、蒋介石が日本と和平を結ぶことは、その後に国民党が共産党掃討作戦を再開することを意味するため、必死で抗日戦に向かわせました。
 日本政府はこの汪兆銘たち和平派と接触していました。汪兆銘は蒋介石と絶縁し、1938(昭和十三)年12月18日重慶を脱出、1940(昭和十五)年3月30日に南京に新政府を樹立します。日本はこの政権を支持しましたが、汪兆銘も日本政府も、蒋介石を主席として迎える余地を残すため汪兆銘を主席代理として、重慶の国民政府との和平工作の努力を続けます。しかし交渉は成功せず、11月30日「日華基本条約」を調印して南京の汪兆銘政権を正式に承認しました。
 アメリカはもちろんこれを不承認、重慶の蒋介石政権を認める声明を発表しました。

 【日独防共協定】
 革命後のソ連では、レーニンの後継者スターリンにより大粛清が行われていました。殺された犠牲者は2000万人以上と言われています。
 そして1935(昭和十)年のコミンテルン第7回大会で反ファシスト人民統一戦線を呼びかけ、ソ連は日本とドイツを公然と敵視するようになります。それに対して1936(昭和十一)年、日本とドイツは、コミンテルンによる共産主義的破壊活動に対する防衛を目的として「日独防共協定」を締結しました。

 【張鼓峰事件】
 1938(昭和十三)年7月、張鼓峰で満洲国とソ連との国境紛争が起こり、ソ連は延べ1900台の戦車と約780機の飛行機を使用したが、日本側はこれらを全く使用していません。それは紛争「不拡大方針」を死守するため、圧倒的な兵力のソ連軍の猛攻に耐えました。停戦協定で日本軍が撤退すると、そこにソ連軍が陣地を構築してしまいました。

 【ノモハン事件】
 1939(昭和十四)年5月再びノモハンで、ソ連軍が関東軍の実力を試そうとして、挑発的越境行為を起します
 9月15日の停戦協定成立の2日後、ソ連はポーランドに侵攻。それはドイツが9月1日にポーランド侵攻したため(第二次世界大戦の始まり)、ポーランド分割の分け前を得るためでした

 【ファシズム】
 国内では近衛内閣により1938(昭和十三)年、国防目的達成のための人的・物的資源を統制運用する「国家総動員法」が成立。1940(昭和十五)年になると、挙国一致の戦時体制確立を目的とした「新体制運動」なる国民組織運動が展開され、10月その指導組織として「大政翼賛会」を創立しました。同年9月には日独伊三国同盟が締結され、戦時体制に移行していきます。
 この時期「ファシズム」が台頭し、日本もその一国と見られているので、これに少し触れると。
 「ファシズム」は、イタリアのムッソリーニが1921(大正十)年ファシスタ党を結成したのが起源です。定義は様々ですが、全体主義(個人よりも国家・民族を極度に優先)・一党独裁(独裁者)・議会政治否定・国家社会主義・軍国主義(侵略主義)といったところです。なお、ドイツのナチスとは国家社会主義ドイツ労働者党のことです。
 この時代の列強で「軍国主義」でない国はなく、植民地支配が「侵略主義」であれば、列強はすべて侵略主義国家です。また戦時体制下では経済統制など多かれ少なかれ「全体主義」的体制を敷くことになります。残る定義の「一党独裁(独裁者)・議会政治否定・国家社会主義」を見ると、これには差がありそうで、
 イタリア・ドイツ・スペイン(フランコ将軍)はファシズム国家に該当するでしょう。ソ連は紛れも無くファシズム国家、赤いファシズム国家と言うべきでしょう。アメリカはと言えば国家社会主義が該当し、ニューディール政策がこれでしょう。
 日本はどうか。まず独裁者はいない。一党独裁については、「大政翼賛会」は政党ではない。これに参加するため、自ら政党を解散した代議士たちは、立法機関の議員が行政機関(補助)の「大政翼賛会」に参加するのはよくないとして、別に「翼賛議員連盟」を結成しました。また、帝国議会も存在し、憲法のもとで予算議決権も内閣不信任の権限も持っていました。戦時に限っては、民主主義の国でも、ある程度の中央集権・統制経済・機密保持などの体制をとらざるを得ません。

 このあたりは丁度今回の富田メモとの関連がある部分です。左翼や反日は、ファシズムを非難しますが、これはこじつけで、彼らの崇拝してきた共産主義国こそ強烈なファシズムで、共産党に反する言動は徹底的に弾圧、粛清です。
 ナチスの犯罪は騒がれますが、ソ連や中国共産党が粛清した数は、ナチスの比ではありません。これこそ世界から裁かれるべきでしょう。
posted by 小楠 at 07:51| Comment(0) | TrackBack(1) | 近現代史の復習
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