2008年07月11日

デリー軍事法廷

終戦と軍事法廷への召喚

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。
写真はマレーのIIL支部に別れの挨拶訪問をした筆者を囲んでの記念写真(昭和17年4月)
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引用開始
 八月十五日、私は、終戦の大詔を福岡衛戊病院の病床で排承した。インパールで罹ったマラリアの発作で入院していたのである。
 将兵、看護婦の慟哭が病院を覆った。その中で、私は終日、終夜、国の行末と身の進退を案じつづけて苦悩した。又マレイ、スマトラ、ビルマに展開したF工作とINAとともに戦ったインパールの死闘の思い出が、亡き盟友、戦友の面影が走馬灯のように私の脳裏をかけめぐった。そしてF機関のメンバーや、現地の戦友や、F機関に協力してくれた何十万現住民の身の上に降りかかるであろう難儀を、あれこれと思い煩った。私は、その責を負わねばならぬと心中に誓った。英蘭当局が、不倶戴天の敵として、真先に私を重要戦犯に指定し、復讐を果たすだろうと予想した。
 私は中野婦長に乞うて、青酸カリを入手し、内ポケットに深く蔵いこんだ。逮捕の使いに接した時、機を失せず毒をあおぐべく。この覚悟と用意が整うと、私の心はいくらか安らいだ。第五七軍高級参謀として敗戦の処理に、心置きなく従えた。

 十月も半ば、私はGHQを介して予想外の召喚状に接した。英マウントバッテン元帥の西南亜連合軍司令部から。それは予期していた戦犯の召喚ではなかった。INA将兵を裁くデリーの英軍軍事法廷の証人としての召喚であった。しかも、被告盟友に対する印度側弁護士団の要請に基づくものであった。・・・・
 私は、召喚状を手に、進退を熟慮した結果、断乎これに応ずる決意を固めた。INA盟友のため、わが祖国とF機関全員のため、更に日印両民族将来のために、証言することが私の責任であると考え及んだからである。
 私は、わが印度工作は、単なる謀略ではない、陛下の大御心に添い、建国の大理想を具現すべく、身をもって実践したものであることを強調しなければならぬと思った。又IILやINAの盟友は、最も清純な祖国愛にもとづき、自主的に決起したもので、断じて日本の傀儡でなかったことを立証しなければならぬと考えた。これが盟友に対する盟義を果たす唯一の途であると思い定めた。
 かく思い定めつつも、私の心の一隅に、一抹の不安が動いた。それは、敗戦の今日、盟友の一部から変節の誣言を受けるかも知れない。非暴力不服従運動を信条とし、外国の援助を忌避することを建て前としてきた印度国民会議派の主流(ガンヂー、ネールを領袖とする正統派)やその影響下にある印度の民衆から、INAを武力闘争に駆った指弾を受けるかも知れない。更に証言終了後、英軍の戦犯として処断されるだろう.俘虜を懐柔逆用し、英帝国への反逆に駆り立てた戦時俘虜取扱いの違反者と銘打って。等々の懸念がともすると私の決意を鈍らせそうになった。なおこの工作の過程に見られた紛糾混迷の事由を追及せられ、心なくも、私が身を奉じた国軍や上司に累を及ぼさんことも計り難い、といった悩みが、一層私を迷わせた。

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posted by 小楠 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物