ハリマオの母親宛ての手紙
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
1月7日からトロラック、スリム地域の英軍陣地に対する総攻撃が予定された。その前日私は石川君を伴って自ら戦線に進出した。戦線におけるF機関やINA、IIL宣伝班の活動を親しく激励し、その活動成果を確認するためであった。私がカンパルの村に到着したとき、村の入口に米村少尉を発見した。少尉は両手を広げて私の車を停めた。少尉は私の車に走り寄って「機関長殿。谷(ハリマオ)君が中央山系を突破してカンパル英軍陣地の背後に進出して活動していました。谷君は次の行動に出発する前に、機関長殿に一目おめにかかりたいと申しますので、いまからイッポ―の本部まで急ごうと思ってここまできたところです」と訴えた。その態度は遠い異国に苦難の長い旅路の途中、一目父にと願う弟を、案内して来た兄のようであった。眼は連夜の活動で充血していた。頬もこけていた。私は米村君の申出に驚きかつ喜んだ。「なに谷君が待っているか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」と急き込んで車から降りた。少尉は私を本道から離れた民家に案内した。そうだ、私は重い使命を負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである。・・・・
そうだ、開戦も間近の11月上旬ごろであったろうか、谷君がたどたどしい片仮名文字で綴った一通の開封の手紙をバンコックの田村大佐のもとに託してきたことがあった。この手紙を彼の郷里、九州の飯塚にある慈母のもとに、届けてくれという申出であった。神本君が仮名文字を教え、手をとって綴らせた手紙であろう。谷君は生後一年の幼い頃から異境に育って、目に一丁字も解することのできない気の毒な日本人であった。昭和16年4月、神本君が南泰で同君に接触以来、片仮名を教えていることを聞いていた。諜報の成果を報告させるために。
その手紙には、
お母さん。豊の長い間の不幸を許して下さい。豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配致しております。お母さん! 日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。豊は日本参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くことになりました。お母さん喜んで下さい。豊は真の日本男子として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。
豊は近いうちに単身英軍のなかに入って行ってマレイ人を味方にして思う存分働きます。生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。お母さん! 豊が死ぬ前にたった一言! いままでの親不孝を許す。お国のためにしっかり働けとお励まし下さい。お母さん! どうかこの豊のこの願いを聞き届けて下さい。そうしてお母さん! 長く長くお達者にお暮らし下さい。お姉さんにもよろしく。
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