2008年06月12日

モハンシン大尉

投降勧告

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 プ氏が数名のシーク人を伴って私の部屋に訪ねてきて,きわめて重要な情報をもたらした。プ氏の言によると、同行の印度人はこの近郊にゴム園を経営している裕福な識者で、かねがねプ氏と気脈を通じている者だということであった。もたらした情報というのは、一昨日のジットラー付近の戦闘で退路を失った英印軍の一大隊が密林沿いに退路を求めて昨日アロルスター東方三十哩のタニンコに脱出してきた。しかし既に将兵は疲労困憊かつ日本軍のアロルスター占領のことを知るに及んで退路を失い、士気喪失しつつある。その大隊は大隊長だけが英人中佐で、中隊長以下全員印度人である。その印度人は昨夜来、かわるがわるこの印度人のエステートに来て色々情報を集めたり、ラジオの戦況放送を聞いたりしている。園主がこの微妙な彼らの心理状態を看破して、真珠湾やマレイ沖航空戦の状況と、アロルスター方面英軍の敗走振りを誇張したり、IILの宣伝を試みたところ将兵の微妙な心理的反応を見てとり、帰順工作が成功するかも知れないとのことであった。・・・・

 この情報を日本軍司令部に報告することを禁じた。日本軍が掃蕩部隊を派遣することを恐れたからである。私はこの信念に徹底するために、明朝は土持大尉と大田黒通訳だけを同行し、しかも身に寸鉄をも帯びないこととした。・・・・
 エステートに着くと、私は車中の思案通り英人大隊長との会見を提案した。プ氏も園主も一寸意外の面持ちであった。しかし私は私達と印度人将校との直接交渉により、件の大隊印度人将兵と英人大隊長との間に誤解が生じて、不必要な悲創を起したり、あるいは大隊長がそのために態度が硬化する始末になることを懸念したからである。・・・・
 私は日本軍代表藤原少佐の名において、簡単に件の大隊が当面している絶望的状況ならびに誠意をもっての投降交渉に応ずる当方の用意を述べ、このエステートにおいて直ちに会見したい旨の信書を認めた。その手紙とともに、私は単独無武装であるが、大隊長は所要の護衛兵を帯同してもさしつかえないことを使者に付言させた。・・・
間もなく自動車で大隊長が現れた。一名の伝令を伴っているだけであった。私は一見既に交渉の成功を確信することができた。私は自動車のもとまで歩を運んで、大隊長を迎え握手の手を差しのべ名を名乗った。・・・
私は自ら大隊長を休憩所に案内して椅子を与え温かいコーヒーを勧めた。大隊長の安堵の色を認めてから、私はおもむろに来意を語った。・・・・
続きを読む
posted by 小楠 at 07:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物