印度独立運動史初の革命軍誕生
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
モハンシンINA司令官は、作戦中の投降兵を加えて五万五千の印度人将兵を掌握することとなった。そしていよいよ、INAの組織に着手した。長い苦難の印度独立運動史に、初めて、独立抗争必須の利器―革命軍をもつことになったのである。投降将校の中には、ギル中佐、ボンスレー少佐(何れも英本国の士官学校、陸軍大学校修学者)等二十名近い先任将校がいた。モ大尉の統率には容易ならぬ困難が伏在することとなった。モ大尉は、INA将校の推薦と諒解を得て、少将に昇進し、革命軍INA司令官としての貫録を整えた。私も「将軍」として、心から敬意を表した。彼は戦後も印度でモハンシン将軍と愛称されている。英軍から反逆者として位階を剥奪されたにかかわらず。
18日正午、シンガポール印度人有力者三十名以上の共同主催のもとに、F機関、IIL、INAの幹部と昨日投降した印度人将校の有力者の招宴が、印度人商工会議所において催された。定刻会議所におもむくと沢山の紳士淑女が私達の到着を待っていてくれた。ゴーホー、メノン両氏も見えた。受付の紳士から生花の花輪を首にかけられた。美しい淑女が胸に清らかな花を飾ってくれた。一昨日まで六十日にわたってすさまじい戦場を馳駆し、夜を日に次ぐあわただしい仕事に忙殺されて、戦塵を洗う暇もなかったぶしつけな私達には、一寸とまどうような雰囲気であった。私は主催者側に促されて、先ず一場の挨拶を述べた。
「このように和やかな、更に有意義な宴を、占領地の紳士淑女が挙って、占領早々の軍人のために催していただくような例は古今にも、東西にも、そう例は少ないと思います。このことは日印両民族の友情の宿縁を証明するものであり、またプ氏やモ大尉の祖国と民族を愛する犠牲的奉仕の結果を示すものだと思います。日印両者がいままで握手を妨げられていたことは神の思召しに背くことであったと思います。私は六十日間にわたって激戦と電撃的進撃の果てに、いまここに着いたばかりの武人でありますので、戦塵にまみれ、服装も応対もまことにぶしつけでございます。しかも久しくこのような珍味にお目にかかる機会に恵まれませんでした。今日は紳士淑女の御好意と御理解に甘えて、六十日間のカロリー補充の意味で、野戦並の行儀で、うんと沢山御馳走を頂きます。お許しを願います。どうか他の日本人もこのようにぶしつけだとは誤解しないで下さい」と軽いスピーチを終えた。・・・
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2008年06月30日
2008年06月27日
英印度兵が日本軍下に
印度独立運動史に残るフェラパーク・スピーチ
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真は印将兵に祖国解放を訴えるモハンシン将軍、一人おいて藤原氏

引用開始
午前10時から私はプ氏やモ大尉と共にファラパークにおもむいた。パークの四周から雲霞のごとく印度兵の部隊がい集した。正午ごろには、旧競馬場のこの広いパークが、印度兵で埋まるように見えた。競馬場のスタンド二階の英ハント中佐参謀が、各部隊の指揮官(印度人将校)から到着部隊名と人員の報告を受けていた。・・・
ハント中佐の側で、立派な風貌と偉躯のシークの中佐が懇切に各部隊に指示を与えているのが私の注意を引いた。・・・・そのうち、モ大尉はその中佐を私のもとに伴って来て、私に紹介してくれた。この中佐こそ、ギル中佐であった。・・・私はモ大尉のこの愛国的活動に対してギル中佐の熱烈な支援を希望した。・・・・
直ちに接収の儀式に移った。マイクを通じて、全印度兵はスタンドに面してき坐を命ぜられた。将校は最前列に集合した。ハント中佐はマイクの前に立った。パークを埋める印度兵が整列を終わって、スタンドのハント中佐に全神経を集中した。中佐はきわめて簡単に、かつ事務的に「印度兵捕虜をこのときをもって日本軍に引渡すことになったから、爾後は日本軍当局の指導に基づいて行動すべし」という意味の数語を語ったのち、私に面して人員名簿を手渡した。その数は五万を上回った。これをもって全印度将兵は日本軍の手に接収された。・・・・
かねてのプランに基づいて、私はまず壇上に立ってマイクに身を寄せた。十万の視線が私の両眼に注がれた。水を打ったような静粛に帰った。私の左に英語通訳に当る国塚少尉が、更にその左隣りにヒンズー語通訳に当るギル中佐が立った。日本軍を代表してこの高壇に立ち、五万になんなんとする印度人将兵に私の使命の理想を宣言する歴史的行事に当ろうとするのである。全身の血がたぎるような感激を覚えた。・・・・
私は改めてマイクの位置を確かめた後、全印度人将兵を見渡しつつ「親愛なる印度兵諸君!」と呼びかけた。数万の視聴は私の口もとに注がれた。語を継いで「私は日本軍を代表して英軍当局から印度兵諸君を接収し、諸君と日本軍、印度国民と日本国民との友愛を取結ぶために参ったF機関長藤原少佐であります」と自己紹介の前言を述べた。・・・
私が東亜の共栄体制を打ちたてんとする日本の理想を説き、印度独立支援に対する日本の熱意を宣明するや、五万の聴衆は熱狂してきた。シンガポールの牙城の崩壊は、英帝国とオランダの支配下にある東亜諸民族の桎梏の鉄鎖を寸断し、その解放を実現する歴史的契機となるであろう、と私の所信を述べるや、満場の聴衆は熱狂状態に入った。拍手と歓声とでパークはどよめいた・・・・
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ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真は印将兵に祖国解放を訴えるモハンシン将軍、一人おいて藤原氏

引用開始
午前10時から私はプ氏やモ大尉と共にファラパークにおもむいた。パークの四周から雲霞のごとく印度兵の部隊がい集した。正午ごろには、旧競馬場のこの広いパークが、印度兵で埋まるように見えた。競馬場のスタンド二階の英ハント中佐参謀が、各部隊の指揮官(印度人将校)から到着部隊名と人員の報告を受けていた。・・・
ハント中佐の側で、立派な風貌と偉躯のシークの中佐が懇切に各部隊に指示を与えているのが私の注意を引いた。・・・・そのうち、モ大尉はその中佐を私のもとに伴って来て、私に紹介してくれた。この中佐こそ、ギル中佐であった。・・・私はモ大尉のこの愛国的活動に対してギル中佐の熱烈な支援を希望した。・・・・
直ちに接収の儀式に移った。マイクを通じて、全印度兵はスタンドに面してき坐を命ぜられた。将校は最前列に集合した。ハント中佐はマイクの前に立った。パークを埋める印度兵が整列を終わって、スタンドのハント中佐に全神経を集中した。中佐はきわめて簡単に、かつ事務的に「印度兵捕虜をこのときをもって日本軍に引渡すことになったから、爾後は日本軍当局の指導に基づいて行動すべし」という意味の数語を語ったのち、私に面して人員名簿を手渡した。その数は五万を上回った。これをもって全印度将兵は日本軍の手に接収された。・・・・
かねてのプランに基づいて、私はまず壇上に立ってマイクに身を寄せた。十万の視線が私の両眼に注がれた。水を打ったような静粛に帰った。私の左に英語通訳に当る国塚少尉が、更にその左隣りにヒンズー語通訳に当るギル中佐が立った。日本軍を代表してこの高壇に立ち、五万になんなんとする印度人将兵に私の使命の理想を宣言する歴史的行事に当ろうとするのである。全身の血がたぎるような感激を覚えた。・・・・
私は改めてマイクの位置を確かめた後、全印度人将兵を見渡しつつ「親愛なる印度兵諸君!」と呼びかけた。数万の視聴は私の口もとに注がれた。語を継いで「私は日本軍を代表して英軍当局から印度兵諸君を接収し、諸君と日本軍、印度国民と日本国民との友愛を取結ぶために参ったF機関長藤原少佐であります」と自己紹介の前言を述べた。・・・
私が東亜の共栄体制を打ちたてんとする日本の理想を説き、印度独立支援に対する日本の熱意を宣明するや、五万の聴衆は熱狂してきた。シンガポールの牙城の崩壊は、英帝国とオランダの支配下にある東亜諸民族の桎梏の鉄鎖を寸断し、その解放を実現する歴史的契機となるであろう、と私の所信を述べるや、満場の聴衆は熱狂状態に入った。拍手と歓声とでパークはどよめいた・・・・
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2008年06月26日
英軍印度兵の接収
F機関、シンガポールへ進出
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はファラパークに接収された45000人の英軍印度兵士

引用開始
2月16日朝、軍参謀長の認可を受けて、われわれの本部はシンガポールに推進された。・・・・山下軍司令官特別の意向によって、一般部隊はすべて市街に入ることを禁じられていた。憲兵と一部の補助憲兵部隊だけが治安維持のため市街に入ることを許されていた。市街の入口には関門が設けられて、部隊は勿論単独兵の通過さえ厳重に取締られていた。・・・・
この日の午後、司令部やINA本部、スマトラ青年団が続々到着した。
夕刻、フォートカニングの英軍司令部でシンガポール接収に関する日英両軍の委員会が開催された。この委員会において、F機関が接収すべく命ぜられた印度兵捕虜は、明17日午後フェラパークの公園において接収することが打合せられた。
英軍委員の報告によると、印度兵の数は五万に達すべしとのことであった。白人捕虜もほぼ同数と概算された。シンガポール島の英軍総兵を三万、そのうち印度兵の数は一万ないし一万五千と判断していたわれわれ日本軍委員は、英軍委員のこの報告に接して顔を見合せて驚いた。英軍の兵力は実に日本軍の兵力に数倍していたのである。もし英軍が日本軍の兵力と弾薬欠乏の状況を知悉して、更に数日頑強な反撃を試みたならば、恐るべき不幸な事態が日本軍を見舞ったであろうと直感して慄然とした。
次いで私の胸裏をかすめた懸念は、現在わずかに四名の将校と、十名余りのシビリアンしか擁していない貧弱なF機関のメンバーで、何らの準備もなく、五万の印度兵を接収し、その宿営、給養、衛生をどんな風にして完うするかということであった。しかも、F機関本来の任務を完遂しなければならない。本部に引上げる自動車の中で明日に迫ったこの難問題に頭を悩ました。・・・・・
そののち、私はモ大尉、プ氏と会合して明日の接収儀式に関して打合せを行った。17日午後一時、英軍代表者から正式に印度兵捕虜を接収したのち、先ず日本軍を代表して私が、次いでINA司令官モ大尉、IIL代表プ氏の順序で演説を行うこととなった。更に印度人将校一同との懇談を実施したのち、計画に基づいて兵営に分宿することとした。続きを読む
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はファラパークに接収された45000人の英軍印度兵士

引用開始
2月16日朝、軍参謀長の認可を受けて、われわれの本部はシンガポールに推進された。・・・・山下軍司令官特別の意向によって、一般部隊はすべて市街に入ることを禁じられていた。憲兵と一部の補助憲兵部隊だけが治安維持のため市街に入ることを許されていた。市街の入口には関門が設けられて、部隊は勿論単独兵の通過さえ厳重に取締られていた。・・・・
この日の午後、司令部やINA本部、スマトラ青年団が続々到着した。
夕刻、フォートカニングの英軍司令部でシンガポール接収に関する日英両軍の委員会が開催された。この委員会において、F機関が接収すべく命ぜられた印度兵捕虜は、明17日午後フェラパークの公園において接収することが打合せられた。
英軍委員の報告によると、印度兵の数は五万に達すべしとのことであった。白人捕虜もほぼ同数と概算された。シンガポール島の英軍総兵を三万、そのうち印度兵の数は一万ないし一万五千と判断していたわれわれ日本軍委員は、英軍委員のこの報告に接して顔を見合せて驚いた。英軍の兵力は実に日本軍の兵力に数倍していたのである。もし英軍が日本軍の兵力と弾薬欠乏の状況を知悉して、更に数日頑強な反撃を試みたならば、恐るべき不幸な事態が日本軍を見舞ったであろうと直感して慄然とした。
次いで私の胸裏をかすめた懸念は、現在わずかに四名の将校と、十名余りのシビリアンしか擁していない貧弱なF機関のメンバーで、何らの準備もなく、五万の印度兵を接収し、その宿営、給養、衛生をどんな風にして完うするかということであった。しかも、F機関本来の任務を完遂しなければならない。本部に引上げる自動車の中で明日に迫ったこの難問題に頭を悩ました。・・・・・
そののち、私はモ大尉、プ氏と会合して明日の接収儀式に関して打合せを行った。17日午後一時、英軍代表者から正式に印度兵捕虜を接収したのち、先ず日本軍を代表して私が、次いでINA司令官モ大尉、IIL代表プ氏の順序で演説を行うこととなった。更に印度人将校一同との懇談を実施したのち、計画に基づいて兵営に分宿することとした。続きを読む
2008年06月25日
ハリマオの母の手紙
シンガポール大英帝国の降伏
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
ランプールから本部のFメンバーの全員が到着していた。神本君が沈痛な面持で私を待っていた。ハリマオ(谷君)が1月下旬ゲマス付近に潜入して活躍中、マラリヤが再発して重態だという報告であった。ハリマオはゲマス付近の英軍の後方に進出して機関車の転覆、電話線の切断、マレイ人義勇兵に対する宣伝に活躍中、マラリヤを再発しながら無理をおしていたのが悪かったのだという説明であった。私は神本君になるべく早くジョホールの陸軍病院に移して看護に付き添ってやるように命じた。
一人として大切でない部下はない。しかし、分けてハリマオは、同君の数奇な過去の運命とこのたびの悲壮な御奉公とを思うと何としても病気で殺したくなかった。敵弾に倒れるなら私もあきらめきれるけれども、病死させたのではあきらめ切れない。私は無理なことを神本氏に命じた。「絶対に病死させるな」と。私は懐に大切に暖めていたハリマオのお母さんの手紙を神本君に手渡した。そして読んで聞かせてやってくれと頼んだ。この手紙は、大本営の参謀からイッポ―で受け取ったのであった。
手紙は、ハリマオの姉さんが達筆で代筆されていた。手紙には、ハリマオが待ち焦がれていた内容が胸が熱くなるほど優しい情愛とりりしい激励とをこめて綿々と綴られていた。
「豊さん、お手紙を拝見してうれし泣きに泣きました。何遍も何遍も拝見致しました。真人間、正しい日本人に生まれ変わって、お国のために捧げて働いて下さるとの御決心、母も姉も夢かと思うほどうれしく思います。母もこれで肩身が広くなりました。許すどころか、両手を合わせて拝みます。どうか立派なお手柄を樹てて下さい。母を始め家内一同達者です。毎日、神様に豊さんの武運長久をお祈りします。母のこと家のことはちっとも心配せずに存分に御奉公して下さい」という文意が盛られていた。まだF機関ができる前の昨年四月以来、ハリマオと一心同体となって敵中に活動し続けてきた神本君、ことに情義に厚い熱血漢、神本君はこの手紙をひ見してハラハラと涙を流した。「この手紙を見せたらハリマオも元気がでるでしょう。必ず治して見せます」といって、ゲマスに向って出発して行った。・・・・
14日の夜は終夜にわたって激戦が続いた。15日の朝になってもこの状況は変わらなかった。負傷者が戦車に収容されて続々と後退してきた。日本軍第十八師団はケッペルスの兵営と標高150mの丘を占領し、第五師団も墓地を奪取した。近衛師団は、シンガポールの市街の東側に侵入してカランの飛行場占領に成功した。日本軍の飛行機はピストンのようにクルアンの飛行場から爆弾を抱いて英軍陣地にたたき込んだ、英軍の抵抗は頑強をきわめた。よくもこれだけ弾丸が続くものだ。銃身も砲身もよくも裂けないものだと思われるほど英軍の射撃は猛烈をきわめた。
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ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
ランプールから本部のFメンバーの全員が到着していた。神本君が沈痛な面持で私を待っていた。ハリマオ(谷君)が1月下旬ゲマス付近に潜入して活躍中、マラリヤが再発して重態だという報告であった。ハリマオはゲマス付近の英軍の後方に進出して機関車の転覆、電話線の切断、マレイ人義勇兵に対する宣伝に活躍中、マラリヤを再発しながら無理をおしていたのが悪かったのだという説明であった。私は神本君になるべく早くジョホールの陸軍病院に移して看護に付き添ってやるように命じた。
一人として大切でない部下はない。しかし、分けてハリマオは、同君の数奇な過去の運命とこのたびの悲壮な御奉公とを思うと何としても病気で殺したくなかった。敵弾に倒れるなら私もあきらめきれるけれども、病死させたのではあきらめ切れない。私は無理なことを神本氏に命じた。「絶対に病死させるな」と。私は懐に大切に暖めていたハリマオのお母さんの手紙を神本君に手渡した。そして読んで聞かせてやってくれと頼んだ。この手紙は、大本営の参謀からイッポ―で受け取ったのであった。
手紙は、ハリマオの姉さんが達筆で代筆されていた。手紙には、ハリマオが待ち焦がれていた内容が胸が熱くなるほど優しい情愛とりりしい激励とをこめて綿々と綴られていた。
「豊さん、お手紙を拝見してうれし泣きに泣きました。何遍も何遍も拝見致しました。真人間、正しい日本人に生まれ変わって、お国のために捧げて働いて下さるとの御決心、母も姉も夢かと思うほどうれしく思います。母もこれで肩身が広くなりました。許すどころか、両手を合わせて拝みます。どうか立派なお手柄を樹てて下さい。母を始め家内一同達者です。毎日、神様に豊さんの武運長久をお祈りします。母のこと家のことはちっとも心配せずに存分に御奉公して下さい」という文意が盛られていた。まだF機関ができる前の昨年四月以来、ハリマオと一心同体となって敵中に活動し続けてきた神本君、ことに情義に厚い熱血漢、神本君はこの手紙をひ見してハラハラと涙を流した。「この手紙を見せたらハリマオも元気がでるでしょう。必ず治して見せます」といって、ゲマスに向って出発して行った。・・・・
14日の夜は終夜にわたって激戦が続いた。15日の朝になってもこの状況は変わらなかった。負傷者が戦車に収容されて続々と後退してきた。日本軍第十八師団はケッペルスの兵営と標高150mの丘を占領し、第五師団も墓地を奪取した。近衛師団は、シンガポールの市街の東側に侵入してカランの飛行場占領に成功した。日本軍の飛行機はピストンのようにクルアンの飛行場から爆弾を抱いて英軍陣地にたたき込んだ、英軍の抵抗は頑強をきわめた。よくもこれだけ弾丸が続くものだ。銃身も砲身もよくも裂けないものだと思われるほど英軍の射撃は猛烈をきわめた。
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2008年06月24日
シンガポール総攻撃
英印度兵が続々投降、INAに参加
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
マレイ半島とシンガポールの島をつなぐただ一本の陸橋は、英軍の手によって破壊されてしまった。
制海、制空権を失ったこの島の英軍は、全く孤立にも等しかった。この島の防備は島の東方にあるチャンギー要塞と市街の西側にあるブラカンマティの要塞によって骨組まれていた。東および南の海正面に対しては不落を誇る厳しい備えを持っていたが、北のマレイ半島に対する陸正面の防備は手薄のようであった。日本軍はこの島によっている英軍の勢力を三万と推定していた。
これに立ち向かう日本軍の総勢力は、鉄道や補給部隊まで加算して五万内外であった。前線で戦闘する兵員の数は二万にもおよばなかったであろう。第五、第十八、近衛の三つの師団があったけれども、完全な師団は第五師団だけであった。そのほかに、戦車連隊が二個と、重砲兵連隊が三個あった。第十八師団以外は、いずれの部隊もマレイ半島で数度の激戦で相当ひどい損害を被っていたが、士気は天に誅する勢いであった。
百四十機の航空部隊は日本軍のために絶対の強みであった。
山下将軍は巧妙な陽動によって日本軍がセレタの方面から攻撃するように見せかけて、英軍をこの正面に牽制しつつ、陸橋より西の正面を攻撃する戦術をとった。2月7日には近衛師団をジョホールの東方に行動させ2月8日の未明にそのほんの一部の部隊をもってウビン島を攻略させた。軍砲兵の主力は、この正面の為陣地からセレタの敵陣地を砲撃した。こうして、英軍が陸橋の東正面に注意をひかれている隙を狙って、2月8日二四○○を期して、陸橋の西の正面から軍主力は一斉に渡河を開始し、テンガ飛行場を目指して殺到した。陽動に任じていた近衛師団も翌9日の夜、陸橋の直ぐ西側正面で渡河してマダイの高地に突進した。北から攻撃する日本軍に対してブキテマ、マダイの高地線は、英軍のためにシンガポールの運命を決する戦術上の要線であった。ブキテマ高地に上るとシンガポールの町は指呼の間にあったし、シンガポール百万市民の死命を制する水源地は、マダイ高地の南側に横たわっていた。
日本軍は、英軍がこの要線で組織的抵抗を試みる前に、一気にこの要線を奪取する計画をもって遮二無二攻撃を急いだ。
2月10日の朝、私はジョホールの王宮に到着し、砲兵の観測所となった高塔に上った。2月8日以来、日本軍砲爆撃のためにセレタやブキバンジャンの数十本の重油タンクが燃えさかって、捲き起る黒煙が空をおおい、また遠くシンガポールの市街方面にも幾十条の黒煙が吹き上がっていた。黒煙と青空の接際部を縫って乱舞する数十機の日本軍の飛行機に対して、数百門に上る英軍高射砲が必死の反撃を試みていた。彼我の砲撃が殷殷として天地を震撼し、シンガポールはとてもこの世のものとは思えないほど、凄絶な煉獄の形相を呈していた。
私は直ちに渡河作業隊の舟艇に移乗して、テンガ飛行場付近の山下将軍の戦闘指揮所に向った。・・・・・
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ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
マレイ半島とシンガポールの島をつなぐただ一本の陸橋は、英軍の手によって破壊されてしまった。
制海、制空権を失ったこの島の英軍は、全く孤立にも等しかった。この島の防備は島の東方にあるチャンギー要塞と市街の西側にあるブラカンマティの要塞によって骨組まれていた。東および南の海正面に対しては不落を誇る厳しい備えを持っていたが、北のマレイ半島に対する陸正面の防備は手薄のようであった。日本軍はこの島によっている英軍の勢力を三万と推定していた。
これに立ち向かう日本軍の総勢力は、鉄道や補給部隊まで加算して五万内外であった。前線で戦闘する兵員の数は二万にもおよばなかったであろう。第五、第十八、近衛の三つの師団があったけれども、完全な師団は第五師団だけであった。そのほかに、戦車連隊が二個と、重砲兵連隊が三個あった。第十八師団以外は、いずれの部隊もマレイ半島で数度の激戦で相当ひどい損害を被っていたが、士気は天に誅する勢いであった。
百四十機の航空部隊は日本軍のために絶対の強みであった。
山下将軍は巧妙な陽動によって日本軍がセレタの方面から攻撃するように見せかけて、英軍をこの正面に牽制しつつ、陸橋より西の正面を攻撃する戦術をとった。2月7日には近衛師団をジョホールの東方に行動させ2月8日の未明にそのほんの一部の部隊をもってウビン島を攻略させた。軍砲兵の主力は、この正面の為陣地からセレタの敵陣地を砲撃した。こうして、英軍が陸橋の東正面に注意をひかれている隙を狙って、2月8日二四○○を期して、陸橋の西の正面から軍主力は一斉に渡河を開始し、テンガ飛行場を目指して殺到した。陽動に任じていた近衛師団も翌9日の夜、陸橋の直ぐ西側正面で渡河してマダイの高地に突進した。北から攻撃する日本軍に対してブキテマ、マダイの高地線は、英軍のためにシンガポールの運命を決する戦術上の要線であった。ブキテマ高地に上るとシンガポールの町は指呼の間にあったし、シンガポール百万市民の死命を制する水源地は、マダイ高地の南側に横たわっていた。
日本軍は、英軍がこの要線で組織的抵抗を試みる前に、一気にこの要線を奪取する計画をもって遮二無二攻撃を急いだ。
2月10日の朝、私はジョホールの王宮に到着し、砲兵の観測所となった高塔に上った。2月8日以来、日本軍砲爆撃のためにセレタやブキバンジャンの数十本の重油タンクが燃えさかって、捲き起る黒煙が空をおおい、また遠くシンガポールの市街方面にも幾十条の黒煙が吹き上がっていた。黒煙と青空の接際部を縫って乱舞する数十機の日本軍の飛行機に対して、数百門に上る英軍高射砲が必死の反撃を試みていた。彼我の砲撃が殷殷として天地を震撼し、シンガポールはとてもこの世のものとは思えないほど、凄絶な煉獄の形相を呈していた。
私は直ちに渡河作業隊の舟艇に移乗して、テンガ飛行場付近の山下将軍の戦闘指揮所に向った。・・・・・
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2008年06月23日
日本軍とINAの協働
日本軍の態度に感激したINA
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
クアラルンプールを占領直後、第三飛行団司令部が前進してきた。私は米村少尉を司令部に派して「リビス」における少数将兵の不心得なる事件を通報して善処願った。その翌日遠藤少将の副官が一少尉を伴ってF機関の本部を訪ねてきた。その少尉がリビス事件の責任者であった。遠藤少将は直ちにこの将校を処罰したうえ、遠藤少将の代表として副官が、責任者を帯同して、私およびモ大尉に陳謝し、かつ品物を返還するという申出であった。
私は遠藤少将の処置に感激して、直ちにモ大尉にこれを取次ぎ、私も共に陳謝の意を述べた。モ大尉は遠藤少将のこの正々堂々たる処置に全く感動し恐縮してしまった。
「戦場において、このような一部将兵の不心得は、どの国の軍隊にもあることです。そしてこれ位のことに勝者の将軍が、捕虜の下級の将兵に丁寧に謝意を述べるなどということは例のないことです。私および私の将兵は、日本軍のこの正しく美しい行為によって日本軍に対する敬愛と信頼とをどんなに強めることでしょう。また、われわれINAの軍紀を自粛せしめる上に計り知れない感化があるでしょう。」と語った。なお私に、こっそりと「あの少尉は将軍からどんな処罰を受けたのでしょうか。重処罰ではないでしょうか。将軍に少尉を罰しないようにお願いして下さい」と申し出た。
私はモ大尉のこの意向と思いやりを伝えた。副官も非常に喜んでくれた。たまたま懇談の際に、一番大事なクアラルンプールの飛行場が英軍の破壊と日本軍の爆撃とで使用困難な状況にあって、差迫りつつある戦況にかんがみて、当惑しているという話が出た。副官の当惑顔の話に気付いたモ大尉は、「今の話はなにか」と尋ね顔であったので、私からこの話を説明した。モ大尉は即座に「それでは直ちにINAがお手伝いを致しましょう」と申出でた。
モ大尉のこの申出を遠藤少将は非常に喜んでくれた。まず中宮中尉が司令部を訪問して印度兵の風俗や習慣や、またINAのことについて司令部や飛行場勤務の将校に詳しく説明して、その理解と尊重を希望した。更に当初は毎日数少ないFメンバーから一名を割いて、日本軍との連絡に当たらせることとした。翌日から毎日1000名以上のINA部隊が飛行場の作業援助に出た。規則正しく、朝の九時から午後四時まで熱心に作業に従事した。飛行場部隊の日本軍将校と印度兵はたちまち大の仲好しになってしまった。能率はぐんぐん上がった。一つの些細なトラブルも起きなかった。遠藤少将は印度兵の労をねぎらうために、金や食料品や日用品などを寄贈して皆を喜ばせた。このINAの協力によって一週間ほどの間に飛行場は使用できるようになった。作業に出たINAの将兵は遠藤少将を敬愛した。作業が完成した日、遠藤少将に敬意を表するため、INA将兵は飛行場で分列式をやって少将をいたく喜ばせた。・・・・
続きを読む
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
クアラルンプールを占領直後、第三飛行団司令部が前進してきた。私は米村少尉を司令部に派して「リビス」における少数将兵の不心得なる事件を通報して善処願った。その翌日遠藤少将の副官が一少尉を伴ってF機関の本部を訪ねてきた。その少尉がリビス事件の責任者であった。遠藤少将は直ちにこの将校を処罰したうえ、遠藤少将の代表として副官が、責任者を帯同して、私およびモ大尉に陳謝し、かつ品物を返還するという申出であった。
私は遠藤少将の処置に感激して、直ちにモ大尉にこれを取次ぎ、私も共に陳謝の意を述べた。モ大尉は遠藤少将のこの正々堂々たる処置に全く感動し恐縮してしまった。
「戦場において、このような一部将兵の不心得は、どの国の軍隊にもあることです。そしてこれ位のことに勝者の将軍が、捕虜の下級の将兵に丁寧に謝意を述べるなどということは例のないことです。私および私の将兵は、日本軍のこの正しく美しい行為によって日本軍に対する敬愛と信頼とをどんなに強めることでしょう。また、われわれINAの軍紀を自粛せしめる上に計り知れない感化があるでしょう。」と語った。なお私に、こっそりと「あの少尉は将軍からどんな処罰を受けたのでしょうか。重処罰ではないでしょうか。将軍に少尉を罰しないようにお願いして下さい」と申し出た。
私はモ大尉のこの意向と思いやりを伝えた。副官も非常に喜んでくれた。たまたま懇談の際に、一番大事なクアラルンプールの飛行場が英軍の破壊と日本軍の爆撃とで使用困難な状況にあって、差迫りつつある戦況にかんがみて、当惑しているという話が出た。副官の当惑顔の話に気付いたモ大尉は、「今の話はなにか」と尋ね顔であったので、私からこの話を説明した。モ大尉は即座に「それでは直ちにINAがお手伝いを致しましょう」と申出でた。
モ大尉のこの申出を遠藤少将は非常に喜んでくれた。まず中宮中尉が司令部を訪問して印度兵の風俗や習慣や、またINAのことについて司令部や飛行場勤務の将校に詳しく説明して、その理解と尊重を希望した。更に当初は毎日数少ないFメンバーから一名を割いて、日本軍との連絡に当たらせることとした。翌日から毎日1000名以上のINA部隊が飛行場の作業援助に出た。規則正しく、朝の九時から午後四時まで熱心に作業に従事した。飛行場部隊の日本軍将校と印度兵はたちまち大の仲好しになってしまった。能率はぐんぐん上がった。一つの些細なトラブルも起きなかった。遠藤少将は印度兵の労をねぎらうために、金や食料品や日用品などを寄贈して皆を喜ばせた。このINAの協力によって一週間ほどの間に飛行場は使用できるようになった。作業に出たINAの将兵は遠藤少将を敬愛した。作業が完成した日、遠藤少将に敬意を表するため、INA将兵は飛行場で分列式をやって少将をいたく喜ばせた。・・・・
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2008年06月20日
ハリマオとの初会見
ハリマオの母親宛ての手紙
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
1月7日からトロラック、スリム地域の英軍陣地に対する総攻撃が予定された。その前日私は石川君を伴って自ら戦線に進出した。戦線におけるF機関やINA、IIL宣伝班の活動を親しく激励し、その活動成果を確認するためであった。私がカンパルの村に到着したとき、村の入口に米村少尉を発見した。少尉は両手を広げて私の車を停めた。少尉は私の車に走り寄って「機関長殿。谷(ハリマオ)君が中央山系を突破してカンパル英軍陣地の背後に進出して活動していました。谷君は次の行動に出発する前に、機関長殿に一目おめにかかりたいと申しますので、いまからイッポ―の本部まで急ごうと思ってここまできたところです」と訴えた。その態度は遠い異国に苦難の長い旅路の途中、一目父にと願う弟を、案内して来た兄のようであった。眼は連夜の活動で充血していた。頬もこけていた。私は米村君の申出に驚きかつ喜んだ。「なに谷君が待っているか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」と急き込んで車から降りた。少尉は私を本道から離れた民家に案内した。そうだ、私は重い使命を負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである。・・・・
そうだ、開戦も間近の11月上旬ごろであったろうか、谷君がたどたどしい片仮名文字で綴った一通の開封の手紙をバンコックの田村大佐のもとに託してきたことがあった。この手紙を彼の郷里、九州の飯塚にある慈母のもとに、届けてくれという申出であった。神本君が仮名文字を教え、手をとって綴らせた手紙であろう。谷君は生後一年の幼い頃から異境に育って、目に一丁字も解することのできない気の毒な日本人であった。昭和16年4月、神本君が南泰で同君に接触以来、片仮名を教えていることを聞いていた。諜報の成果を報告させるために。
その手紙には、
お母さん。豊の長い間の不幸を許して下さい。豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配致しております。お母さん! 日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。豊は日本参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くことになりました。お母さん喜んで下さい。豊は真の日本男子として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。
豊は近いうちに単身英軍のなかに入って行ってマレイ人を味方にして思う存分働きます。生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。お母さん! 豊が死ぬ前にたった一言! いままでの親不孝を許す。お国のためにしっかり働けとお励まし下さい。お母さん! どうかこの豊のこの願いを聞き届けて下さい。そうしてお母さん! 長く長くお達者にお暮らし下さい。お姉さんにもよろしく。
続きを読む
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
1月7日からトロラック、スリム地域の英軍陣地に対する総攻撃が予定された。その前日私は石川君を伴って自ら戦線に進出した。戦線におけるF機関やINA、IIL宣伝班の活動を親しく激励し、その活動成果を確認するためであった。私がカンパルの村に到着したとき、村の入口に米村少尉を発見した。少尉は両手を広げて私の車を停めた。少尉は私の車に走り寄って「機関長殿。谷(ハリマオ)君が中央山系を突破してカンパル英軍陣地の背後に進出して活動していました。谷君は次の行動に出発する前に、機関長殿に一目おめにかかりたいと申しますので、いまからイッポ―の本部まで急ごうと思ってここまできたところです」と訴えた。その態度は遠い異国に苦難の長い旅路の途中、一目父にと願う弟を、案内して来た兄のようであった。眼は連夜の活動で充血していた。頬もこけていた。私は米村君の申出に驚きかつ喜んだ。「なに谷君が待っているか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」と急き込んで車から降りた。少尉は私を本道から離れた民家に案内した。そうだ、私は重い使命を負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである。・・・・
そうだ、開戦も間近の11月上旬ごろであったろうか、谷君がたどたどしい片仮名文字で綴った一通の開封の手紙をバンコックの田村大佐のもとに託してきたことがあった。この手紙を彼の郷里、九州の飯塚にある慈母のもとに、届けてくれという申出であった。神本君が仮名文字を教え、手をとって綴らせた手紙であろう。谷君は生後一年の幼い頃から異境に育って、目に一丁字も解することのできない気の毒な日本人であった。昭和16年4月、神本君が南泰で同君に接触以来、片仮名を教えていることを聞いていた。諜報の成果を報告させるために。
その手紙には、
お母さん。豊の長い間の不幸を許して下さい。豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配致しております。お母さん! 日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。豊は日本参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くことになりました。お母さん喜んで下さい。豊は真の日本男子として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。
豊は近いうちに単身英軍のなかに入って行ってマレイ人を味方にして思う存分働きます。生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。お母さん! 豊が死ぬ前にたった一言! いままでの親不孝を許す。お国のためにしっかり働けとお励まし下さい。お母さん! どうかこの豊のこの願いを聞き届けて下さい。そうしてお母さん! 長く長くお達者にお暮らし下さい。お姉さんにもよろしく。
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2008年06月17日
インド国民軍の誕生
F機関とモハンシン大尉の決起
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はINA幹部、左からモハンシン将軍、ギル中佐、アグナム大尉

引用開始
昭和16年の年の瀬、12月31日も日没となった頃、アロルスターからモ大尉が予告もなく突然訪ねて来た。・・・・
モ大尉はおもむろに口を開いて、「われわれ将兵は数次の慎重なる協議の後、次に述べる条件が日本軍によって容認されることを前提として、全員一致、祖国の解放と自由獲得のため決起する決意を固めました。ついては、次のような取り決めが、日本側から快諾されることを希望します」と語った。モ大尉から提言された内容は、
「(1)モ大尉は印度国民軍(INA)の編成に着手する。(2)これに対して日本軍は全幅の支援を供与する。(3)INAとIILは差当り協力関係とする。(4)日本軍は印度兵捕虜の指導をモ大尉に委任する。(5)日本軍は印度兵捕虜を友情をもって遇し、INAに参加を希望するものは解放する。(6)INAは日本軍と同盟関係の友軍と見做す」等々の条件であった。私はモ大尉のこの決意と申出は、個人としては直ちに賛同し得るものがあった。しかし、きわめて重大な問題であり、軍司令官の意向を確認する必要があるので即答を保留した。・・・・
モ大尉の要望事項の一つ「同盟国軍に準じてINAを処遇する」問題については、公的な正式取決めは、現段階においては技術的に困難が伴うので、差当り実質的に希望に応ずることとして諒解に達した。INAの結成については、健全な育成に達するまで、差当り公表を見合すことに意見が一致した。モ大尉はINA本部を編成して、近日イッポ―に前進することとなった。
私とモ大尉の討議が完全なる諒解に達したので、私は直ちに山下将軍の司令部に鈴木参謀長と杉田参謀を訪問して、モ大尉の申出を報告し、私とモ大尉と討議の経緯を説明した。鈴木参謀長は同盟国軍として正式に取り決めることについては、私と同様の見解を明らかにしたのち、モ大尉の提案を容認し、山下将軍の認可を受けた。私はこの機会に、更にYMA副会長オナム氏やスマトラ青年サイドアブバカル君との接触についても詳細に報告した。鈴木参謀長、杉田参謀はこの接触の成功も非常に喜んでくれた。
私は急いで本部に引き返し、山下軍司令部のこの意向をプ氏とモ大尉に通告した。
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ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はINA幹部、左からモハンシン将軍、ギル中佐、アグナム大尉

引用開始
昭和16年の年の瀬、12月31日も日没となった頃、アロルスターからモ大尉が予告もなく突然訪ねて来た。・・・・
モ大尉はおもむろに口を開いて、「われわれ将兵は数次の慎重なる協議の後、次に述べる条件が日本軍によって容認されることを前提として、全員一致、祖国の解放と自由獲得のため決起する決意を固めました。ついては、次のような取り決めが、日本側から快諾されることを希望します」と語った。モ大尉から提言された内容は、
「(1)モ大尉は印度国民軍(INA)の編成に着手する。(2)これに対して日本軍は全幅の支援を供与する。(3)INAとIILは差当り協力関係とする。(4)日本軍は印度兵捕虜の指導をモ大尉に委任する。(5)日本軍は印度兵捕虜を友情をもって遇し、INAに参加を希望するものは解放する。(6)INAは日本軍と同盟関係の友軍と見做す」等々の条件であった。私はモ大尉のこの決意と申出は、個人としては直ちに賛同し得るものがあった。しかし、きわめて重大な問題であり、軍司令官の意向を確認する必要があるので即答を保留した。・・・・
モ大尉の要望事項の一つ「同盟国軍に準じてINAを処遇する」問題については、公的な正式取決めは、現段階においては技術的に困難が伴うので、差当り実質的に希望に応ずることとして諒解に達した。INAの結成については、健全な育成に達するまで、差当り公表を見合すことに意見が一致した。モ大尉はINA本部を編成して、近日イッポ―に前進することとなった。
私とモ大尉の討議が完全なる諒解に達したので、私は直ちに山下将軍の司令部に鈴木参謀長と杉田参謀を訪問して、モ大尉の申出を報告し、私とモ大尉と討議の経緯を説明した。鈴木参謀長は同盟国軍として正式に取り決めることについては、私と同様の見解を明らかにしたのち、モ大尉の提案を容認し、山下将軍の認可を受けた。私はこの機会に、更にYMA副会長オナム氏やスマトラ青年サイドアブバカル君との接触についても詳細に報告した。鈴木参謀長、杉田参謀はこの接触の成功も非常に喜んでくれた。
私は急いで本部に引き返し、山下軍司令部のこの意向をプ氏とモ大尉に通告した。
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2008年06月16日
ペナンのIIL結成大会
ペナン島の印度人代表ラガバン氏
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
プ氏と私は三日間の予定をもってピナン(ペナン)に向かった。この地に詳しい鈴木氏が私達の自動車を操縦して案内に当った。われわれの本部は、この間にタイピンに躍進するように命じた。バタワースの対岸からながめたピナン(ペナン)は絵のように美しかった。六甲を背景とする祖国の神戸をしのばせるものがあった。・・・・
海岸の豪壮なオリエンタルホテルが、日本軍軍政機関の臨時の本部に当てられていた。英軍のために危うく印度へ連行される運命を免れ、監獄から印度人やマレイ人に救出される幸運を拾った日本人たちでにぎわっていた。・・・・
翌日午前プ氏の使いの案内を受けて、晴れのIIL結成大会場に臨んだ。広い会場は一万を越える印度人の大衆に埋められ、数流の印度国旗が浜風にはためいていた。プ氏と私はこの大衆の全視線に迎えられつつ正面の定めの席に導かれた。サリーという純白の印度服をまとった小柄な紳士が静かに進み出て、慇懃に握手の手を差し伸べた。大田黒氏の通訳を介して、この島の印度人代表ローヤル・ラガバン氏であることを知った。私は氏と対面のこの一瞬に、英知と慈愛と熱情を象徴する両眼、深い思慮と重厚な徳を示す、うるみを帯びた口調、謙虚な徳と清純沈静な風格を示す物腰など一見して氏は最高度の教養を身につけた衆望の紳士であることがうかがわれた。氏についで、ラガバン氏の縁者のメノン氏を紹介された。親しみ深い温厚な紳士であった。一同が席についてから、先ずプ氏が演壇に立って熱弁を振った。
プ氏はIILの目的や運動の経緯を語ったのち、アロルスターやスンゲイバタニ―において、IILの下に保護されつつある印度兵捕虜や住民の幸福な状況を説明し、更に近き日にそれらの印度人有志をもって印度独立義勇軍を結成し、祖国の桎梏を断ち切らんとする烈々たる決意を強調した。満場の大衆は熱狂歓呼してこれに応えた。プ氏に次いで私は壇上に送られた。アロルスターの大会と同様の趣旨を強調したのち、将来印度独立義勇軍が祖国解放の遠征にのぼる時来たらば、日本軍もまた旗鼓相和して支援すべき抱負を述べた。
最後にラバガン氏が起って、荘重なうるみのある声調をもって切々たる雄弁を試み満場の大衆を捉えた。特に日本軍が印度の解放に協力し、またIILを支援してマレイの印度人と印度兵捕虜を保護しつつある友情に対して、満腔の感謝を述べた。また祖国の解放と自由の獲得こそ、全印度人の念願であり、すべての印度人は祖国解放の闘いに殉ぜんとする愛国の熱情を蔵していることを強調し、IIL運動に対して全幅の支援と協力の用意を力説した。大会は大衆一致の共鳴を受けて終了した。大衆はこぞってIILに参加し、IILの運動と印度兵捕虜救恤のため、献金を申し出で、尊い献金が積まれた。
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ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
プ氏と私は三日間の予定をもってピナン(ペナン)に向かった。この地に詳しい鈴木氏が私達の自動車を操縦して案内に当った。われわれの本部は、この間にタイピンに躍進するように命じた。バタワースの対岸からながめたピナン(ペナン)は絵のように美しかった。六甲を背景とする祖国の神戸をしのばせるものがあった。・・・・
海岸の豪壮なオリエンタルホテルが、日本軍軍政機関の臨時の本部に当てられていた。英軍のために危うく印度へ連行される運命を免れ、監獄から印度人やマレイ人に救出される幸運を拾った日本人たちでにぎわっていた。・・・・
翌日午前プ氏の使いの案内を受けて、晴れのIIL結成大会場に臨んだ。広い会場は一万を越える印度人の大衆に埋められ、数流の印度国旗が浜風にはためいていた。プ氏と私はこの大衆の全視線に迎えられつつ正面の定めの席に導かれた。サリーという純白の印度服をまとった小柄な紳士が静かに進み出て、慇懃に握手の手を差し伸べた。大田黒氏の通訳を介して、この島の印度人代表ローヤル・ラガバン氏であることを知った。私は氏と対面のこの一瞬に、英知と慈愛と熱情を象徴する両眼、深い思慮と重厚な徳を示す、うるみを帯びた口調、謙虚な徳と清純沈静な風格を示す物腰など一見して氏は最高度の教養を身につけた衆望の紳士であることがうかがわれた。氏についで、ラガバン氏の縁者のメノン氏を紹介された。親しみ深い温厚な紳士であった。一同が席についてから、先ずプ氏が演壇に立って熱弁を振った。
プ氏はIILの目的や運動の経緯を語ったのち、アロルスターやスンゲイバタニ―において、IILの下に保護されつつある印度兵捕虜や住民の幸福な状況を説明し、更に近き日にそれらの印度人有志をもって印度独立義勇軍を結成し、祖国の桎梏を断ち切らんとする烈々たる決意を強調した。満場の大衆は熱狂歓呼してこれに応えた。プ氏に次いで私は壇上に送られた。アロルスターの大会と同様の趣旨を強調したのち、将来印度独立義勇軍が祖国解放の遠征にのぼる時来たらば、日本軍もまた旗鼓相和して支援すべき抱負を述べた。
最後にラバガン氏が起って、荘重なうるみのある声調をもって切々たる雄弁を試み満場の大衆を捉えた。特に日本軍が印度の解放に協力し、またIILを支援してマレイの印度人と印度兵捕虜を保護しつつある友情に対して、満腔の感謝を述べた。また祖国の解放と自由の獲得こそ、全印度人の念願であり、すべての印度人は祖国解放の闘いに殉ぜんとする愛国の熱情を蔵していることを強調し、IIL運動に対して全幅の支援と協力の用意を力説した。大会は大衆一致の共鳴を受けて終了した。大衆はこぞってIILに参加し、IILの運動と印度兵捕虜救恤のため、献金を申し出で、尊い献金が積まれた。
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2008年06月13日
山下将軍との面接
インド人のボース氏への敬慕
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はシンガポール攻防戦で英軍の無条件降伏時の山下将軍

引用開始
17日正午、私はF機関と、IILのメンバーと、モ大尉グループの印度人将校、下士官全員合同の会食を計画した。食事は印度兵の好む印度料理を希望し、印度兵諸君の手料理をモ大尉に依頼した。その準備で警察署の裏庭は朝からごった返した。・・・・私が単に親善の一助にもと思って何心なく催したこの計画は、印度人将校の間に驚くべき深刻な感激を呼んだ。モ大尉は起って「戦勝軍の要職にある日本軍参謀が、一昨日投降したばかりの敗戦軍の印度兵捕虜、それも下士官まで加えて、同じ食卓で印度料理の会食をするなどいうことは、英軍のなかではなにびとも夢想だにできないことであった。英軍の中では同じ部隊の戦友でありながら、英人将校が印度兵と食を共にしたことはなかった。印度人将校の熱意にも拘わらず、将校集会所で、時に印度料理を用いてほしいと願うわれわれの提案さえ容れられなかった。藤原少佐の、この敵味方、勝者敗者、民族の相違を超えた、温かい催しこそは、一昨日来われわれに示されつつある友愛の実践と共に、日本の印度に対する誠意の千万言にも優る実証である。印度兵一同の感激は表現の言葉もないほどである。今日の料理と設備は藤原少佐の折角の依頼にも拘わらずこんな状況下における突然の催しであったため、きわめて不十分な点を御寛容願いたいといったような趣旨のテーブルスピーチをやった。
私は、ボース氏を思慕するモ大尉の念願に対して、率直にボース氏を今直ぐ東亜に迎えることは困難と思われるから、差当り東亜におけるIILのこの運動を発展させ、ヨーロッパにおけるボース氏の大事業と相呼応させて、印度の独立運動を世界的規模において、推進する着想をひれきした。モ大尉の念願を大本営を通じてボース氏に連絡すべきことをを約し、モ大尉始め印度の青年が奮起して第二、第三のボースとなることを激励した。
五日間の会談ののち、モ大尉は祖国の解放運動に挺身する決意に近づきつつあるように見えた。しかし、日本の誠意を更に確認すること、祖国の同胞特に会議派の支持を得ること、同僚印度人全将兵の堅確なる同意を得ることなどについて、更に慎重なる研究、検討の必要を認めている様子であった。私も又革命軍を結成して、革命闘争に立ち上るというような重大な事柄を、一朝の思いつきや感動にかられて決心しても成功するものではないと思った。モ大尉を始め印度将兵が全員一致、不抜の信念を固め、自発的に展開するものでなければ、絶対に成功するものではないと信じ、私はモ大尉に急ぐことなく慎重に熟慮されんことを切望した。プ氏も私と同意見であった。
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ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はシンガポール攻防戦で英軍の無条件降伏時の山下将軍

引用開始
17日正午、私はF機関と、IILのメンバーと、モ大尉グループの印度人将校、下士官全員合同の会食を計画した。食事は印度兵の好む印度料理を希望し、印度兵諸君の手料理をモ大尉に依頼した。その準備で警察署の裏庭は朝からごった返した。・・・・私が単に親善の一助にもと思って何心なく催したこの計画は、印度人将校の間に驚くべき深刻な感激を呼んだ。モ大尉は起って「戦勝軍の要職にある日本軍参謀が、一昨日投降したばかりの敗戦軍の印度兵捕虜、それも下士官まで加えて、同じ食卓で印度料理の会食をするなどいうことは、英軍のなかではなにびとも夢想だにできないことであった。英軍の中では同じ部隊の戦友でありながら、英人将校が印度兵と食を共にしたことはなかった。印度人将校の熱意にも拘わらず、将校集会所で、時に印度料理を用いてほしいと願うわれわれの提案さえ容れられなかった。藤原少佐の、この敵味方、勝者敗者、民族の相違を超えた、温かい催しこそは、一昨日来われわれに示されつつある友愛の実践と共に、日本の印度に対する誠意の千万言にも優る実証である。印度兵一同の感激は表現の言葉もないほどである。今日の料理と設備は藤原少佐の折角の依頼にも拘わらずこんな状況下における突然の催しであったため、きわめて不十分な点を御寛容願いたいといったような趣旨のテーブルスピーチをやった。
私は、ボース氏を思慕するモ大尉の念願に対して、率直にボース氏を今直ぐ東亜に迎えることは困難と思われるから、差当り東亜におけるIILのこの運動を発展させ、ヨーロッパにおけるボース氏の大事業と相呼応させて、印度の独立運動を世界的規模において、推進する着想をひれきした。モ大尉の念願を大本営を通じてボース氏に連絡すべきことをを約し、モ大尉始め印度の青年が奮起して第二、第三のボースとなることを激励した。
五日間の会談ののち、モ大尉は祖国の解放運動に挺身する決意に近づきつつあるように見えた。しかし、日本の誠意を更に確認すること、祖国の同胞特に会議派の支持を得ること、同僚印度人全将兵の堅確なる同意を得ることなどについて、更に慎重なる研究、検討の必要を認めている様子であった。私も又革命軍を結成して、革命闘争に立ち上るというような重大な事柄を、一朝の思いつきや感動にかられて決心しても成功するものではないと思った。モ大尉を始め印度将兵が全員一致、不抜の信念を固め、自発的に展開するものでなければ、絶対に成功するものではないと信じ、私はモ大尉に急ぐことなく慎重に熟慮されんことを切望した。プ氏も私と同意見であった。
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2008年06月12日
モハンシン大尉
投降勧告
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
プ氏が数名のシーク人を伴って私の部屋に訪ねてきて,きわめて重要な情報をもたらした。プ氏の言によると、同行の印度人はこの近郊にゴム園を経営している裕福な識者で、かねがねプ氏と気脈を通じている者だということであった。もたらした情報というのは、一昨日のジットラー付近の戦闘で退路を失った英印軍の一大隊が密林沿いに退路を求めて昨日アロルスター東方三十哩のタニンコに脱出してきた。しかし既に将兵は疲労困憊かつ日本軍のアロルスター占領のことを知るに及んで退路を失い、士気喪失しつつある。その大隊は大隊長だけが英人中佐で、中隊長以下全員印度人である。その印度人は昨夜来、かわるがわるこの印度人のエステートに来て色々情報を集めたり、ラジオの戦況放送を聞いたりしている。園主がこの微妙な彼らの心理状態を看破して、真珠湾やマレイ沖航空戦の状況と、アロルスター方面英軍の敗走振りを誇張したり、IILの宣伝を試みたところ将兵の微妙な心理的反応を見てとり、帰順工作が成功するかも知れないとのことであった。・・・・
この情報を日本軍司令部に報告することを禁じた。日本軍が掃蕩部隊を派遣することを恐れたからである。私はこの信念に徹底するために、明朝は土持大尉と大田黒通訳だけを同行し、しかも身に寸鉄をも帯びないこととした。・・・・
エステートに着くと、私は車中の思案通り英人大隊長との会見を提案した。プ氏も園主も一寸意外の面持ちであった。しかし私は私達と印度人将校との直接交渉により、件の大隊印度人将兵と英人大隊長との間に誤解が生じて、不必要な悲創を起したり、あるいは大隊長がそのために態度が硬化する始末になることを懸念したからである。・・・・
私は日本軍代表藤原少佐の名において、簡単に件の大隊が当面している絶望的状況ならびに誠意をもっての投降交渉に応ずる当方の用意を述べ、このエステートにおいて直ちに会見したい旨の信書を認めた。その手紙とともに、私は単独無武装であるが、大隊長は所要の護衛兵を帯同してもさしつかえないことを使者に付言させた。・・・
間もなく自動車で大隊長が現れた。一名の伝令を伴っているだけであった。私は一見既に交渉の成功を確信することができた。私は自動車のもとまで歩を運んで、大隊長を迎え握手の手を差しのべ名を名乗った。・・・
私は自ら大隊長を休憩所に案内して椅子を与え温かいコーヒーを勧めた。大隊長の安堵の色を認めてから、私はおもむろに来意を語った。・・・・
続きを読む
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
プ氏が数名のシーク人を伴って私の部屋に訪ねてきて,きわめて重要な情報をもたらした。プ氏の言によると、同行の印度人はこの近郊にゴム園を経営している裕福な識者で、かねがねプ氏と気脈を通じている者だということであった。もたらした情報というのは、一昨日のジットラー付近の戦闘で退路を失った英印軍の一大隊が密林沿いに退路を求めて昨日アロルスター東方三十哩のタニンコに脱出してきた。しかし既に将兵は疲労困憊かつ日本軍のアロルスター占領のことを知るに及んで退路を失い、士気喪失しつつある。その大隊は大隊長だけが英人中佐で、中隊長以下全員印度人である。その印度人は昨夜来、かわるがわるこの印度人のエステートに来て色々情報を集めたり、ラジオの戦況放送を聞いたりしている。園主がこの微妙な彼らの心理状態を看破して、真珠湾やマレイ沖航空戦の状況と、アロルスター方面英軍の敗走振りを誇張したり、IILの宣伝を試みたところ将兵の微妙な心理的反応を見てとり、帰順工作が成功するかも知れないとのことであった。・・・・
この情報を日本軍司令部に報告することを禁じた。日本軍が掃蕩部隊を派遣することを恐れたからである。私はこの信念に徹底するために、明朝は土持大尉と大田黒通訳だけを同行し、しかも身に寸鉄をも帯びないこととした。・・・・
エステートに着くと、私は車中の思案通り英人大隊長との会見を提案した。プ氏も園主も一寸意外の面持ちであった。しかし私は私達と印度人将校との直接交渉により、件の大隊印度人将兵と英人大隊長との間に誤解が生じて、不必要な悲創を起したり、あるいは大隊長がそのために態度が硬化する始末になることを懸念したからである。・・・・
私は日本軍代表藤原少佐の名において、簡単に件の大隊が当面している絶望的状況ならびに誠意をもっての投降交渉に応ずる当方の用意を述べ、このエステートにおいて直ちに会見したい旨の信書を認めた。その手紙とともに、私は単独無武装であるが、大隊長は所要の護衛兵を帯同してもさしつかえないことを使者に付言させた。・・・
間もなく自動車で大隊長が現れた。一名の伝令を伴っているだけであった。私は一見既に交渉の成功を確信することができた。私は自動車のもとまで歩を運んで、大隊長を迎え握手の手を差しのべ名を名乗った。・・・
私は自ら大隊長を休憩所に案内して椅子を与え温かいコーヒーを勧めた。大隊長の安堵の色を認めてから、私はおもむろに来意を語った。・・・・
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2008年06月11日
覆面を脱いだIIL
飛行機上の美談
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
飛行機が断雲を縫うてチュンボン沖に差しかかったころ、プ氏は座席を立って私の座席に近寄った。松井機長の立派な人柄を賞賛したのち、泰貨幣500パーツを入れた封筒を示して、松井機長始め搭乗員一同に謝意の印として、さしあげたいと申出た。私はプ氏の折角の好意でもあるのでその旨を機長に告げた。ハンドルを操縦手に託して客室に入ってきた松井機長は、しばらく恐縮の面持で返事に窮した様子ののち、プ氏に次のように申出た。
「私は、祖国解放のために身を挺して戦場に向われる貴下達印度の志士をお送りできるのを無上の光栄と思っている。私の気持ちは、このまま貴下にお伴して行って、貴方の仕事に奉仕したいほどの気持ちであるが、それは不可能なことである。貴下から私に感謝の賜物をいただくことは重ね重ねの光栄と思いますので有難く頂戴する。
そして改めて、私からこれを貴方に尊い運動の資金に献納して、私の気持ちの一端を表したいと思います。どうぞ受け取っていただきたい。私は、貴方の殉国的運動が成功を収め、印度の同胞が一日も早く輝かしい自由の日を迎えるようお祈りします」と述べた。プ氏の眼にも、機長の眼にも、立会っている私のまぶたにも、真珠のような清いものが光っていた。・・・・・
日本軍の進撃は、疾風のごとく快調であることがわかった。
私がこのような状況を承知し終わった頃、一将校が快ニュースをもたらした。日本海軍航空部隊がクワンタン沖で英極東艦隊主力艦プリンスオブウェルス、レパルスの二隻を捕捉轟沈させたというニュースであった。軍司令部の一角で万歳の叫びが上がった。・・・・
土持大尉は、田代氏が住んでいた町はずれの粋な二階建ての住宅をIILの本部にすばやく準備し、F機関本部は大南公司の小さな店先に位置するように手配していた。土持大尉の案内で、私はIIL本部となる予定の家を見に出かけた。早くもこの町の印度人の数名が先着していた。プ氏も私も一見して満足した。
大尉のこの心使いを私は何よりも嬉しいものに思った。プ氏も心から喜んでくれた。プ氏は直ちにバンコックから携行してきた印度の大国旗を二階のベランダに掲げた。国旗を掲げるプ氏の手は感動に打ち震えていた。薄桃色、緑、白の三色地にインドの悲願を象徴する紡車をおいた民族旗は、まぶしい茜色の落陽を浴びてはためいた。国旗に面して祈りを捧げるプ氏の塑像のような厳な姿は、この民族旗と落陽の光に荘厳に映え輝いた。仰ぐ私達は暫時己を忘れて感激に浸った。続いて大布に印度語と日本語で印されたIILの看板がベランダの手摺にはりひろげられた。これこそ、IILが覆面をかなぐり捨て、公然、決然祖国の自由と解放を求めんとする闘争の宣言であった。・・・・
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ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
飛行機が断雲を縫うてチュンボン沖に差しかかったころ、プ氏は座席を立って私の座席に近寄った。松井機長の立派な人柄を賞賛したのち、泰貨幣500パーツを入れた封筒を示して、松井機長始め搭乗員一同に謝意の印として、さしあげたいと申出た。私はプ氏の折角の好意でもあるのでその旨を機長に告げた。ハンドルを操縦手に託して客室に入ってきた松井機長は、しばらく恐縮の面持で返事に窮した様子ののち、プ氏に次のように申出た。
「私は、祖国解放のために身を挺して戦場に向われる貴下達印度の志士をお送りできるのを無上の光栄と思っている。私の気持ちは、このまま貴下にお伴して行って、貴方の仕事に奉仕したいほどの気持ちであるが、それは不可能なことである。貴下から私に感謝の賜物をいただくことは重ね重ねの光栄と思いますので有難く頂戴する。
そして改めて、私からこれを貴方に尊い運動の資金に献納して、私の気持ちの一端を表したいと思います。どうぞ受け取っていただきたい。私は、貴方の殉国的運動が成功を収め、印度の同胞が一日も早く輝かしい自由の日を迎えるようお祈りします」と述べた。プ氏の眼にも、機長の眼にも、立会っている私のまぶたにも、真珠のような清いものが光っていた。・・・・・
日本軍の進撃は、疾風のごとく快調であることがわかった。
私がこのような状況を承知し終わった頃、一将校が快ニュースをもたらした。日本海軍航空部隊がクワンタン沖で英極東艦隊主力艦プリンスオブウェルス、レパルスの二隻を捕捉轟沈させたというニュースであった。軍司令部の一角で万歳の叫びが上がった。・・・・
土持大尉は、田代氏が住んでいた町はずれの粋な二階建ての住宅をIILの本部にすばやく準備し、F機関本部は大南公司の小さな店先に位置するように手配していた。土持大尉の案内で、私はIIL本部となる予定の家を見に出かけた。早くもこの町の印度人の数名が先着していた。プ氏も私も一見して満足した。
大尉のこの心使いを私は何よりも嬉しいものに思った。プ氏も心から喜んでくれた。プ氏は直ちにバンコックから携行してきた印度の大国旗を二階のベランダに掲げた。国旗を掲げるプ氏の手は感動に打ち震えていた。薄桃色、緑、白の三色地にインドの悲願を象徴する紡車をおいた民族旗は、まぶしい茜色の落陽を浴びてはためいた。国旗に面して祈りを捧げるプ氏の塑像のような厳な姿は、この民族旗と落陽の光に荘厳に映え輝いた。仰ぐ私達は暫時己を忘れて感激に浸った。続いて大布に印度語と日本語で印されたIILの看板がベランダの手摺にはりひろげられた。これこそ、IILが覆面をかなぐり捨て、公然、決然祖国の自由と解放を求めんとする闘争の宣言であった。・・・・
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2008年06月10日
開戦決定の飛電
泰ピブン首相の失踪
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
12月4日の午後、武官室電報班の江里という青年(大川周明博士の塾出身)が一片の電文をわしづかみに息せき切って補佐官室に飛び込んできた。大本営からの飛電である。帝国政府はこの日の午前会議において、万死一生の決意すなわち英、米両国に対する開戦を決定したのである。ついに運命の大戦争は決意された。X日は12月8日の予定と。
海南島に待機していたマレイ攻略軍の大船団は、この日、泊地を出航して直路南泰沖に向かうのである。
泰、仏印国境には、近衛師団がスタートラインに勢ぞろいした競馬のように詰めかけている。・・・・
マレイ攻略軍の船団は三日四晩も英軍の眼の光っている仏印沖を抜けて南支那海を泰湾に進航するのである。天祐か、奇蹟でもなければ、英軍の発見を免れることはできないであろう。バンコックの無線諜報は、マレイ沖からボルネオ沖にかけて英軍機の頻繁な哨戒行動を立証している。日本軍はこの奇蹟の成否に、緒戦の運命を賭けているのである。もし洋上に発見されたら、マレイ英空軍とシンガポールに不沈を誇る英極東艦隊必殺の攻撃を受けること必至である。もしそんなことが起きたらその結果は,想うだに慄然たるものがある。山下兵団の壊滅もあり得る。首そ両端を持する泰国の動向等は、この一事件だけでたちまち日本の敵になることは火を見るよりも明らかである。・・・・
12月お6日、いよいよ日本軍の船団がサイゴン沖に差しかかる日である。英軍哨戒の危険区域に入るのだ。この日、サイゴンの軍司令部から連絡の将校がきて、七日午後を期して、泰国政府に日本軍進駐を要求する最後通牒を提出することを武官と打ち合わせた。そして、泰国がこの日本の要求を容認するか否か・・・いわば泰国が日本の味方であるか、敵国であるかを確認するために、12月8日の払暁、武官室の上空に飛ばせるわが飛行機に対して煙と布板の信号をするように打ち合わせて帰って行った。この夜もオリエンタルホテルで外人達の和やかな会食や舞踏が常日のように行われていた。明くれば12月7日である。・・・
この朝、思わざる奇怪な変事が捲き起った。午前九時頃であったろうか、田村大佐と格別に親密な間柄といわれている泰国政府の閣僚ワニット氏が、突然血相を変えて武官室の宿舎に飛び込んできたのである。そして非常な興奮の面持で応対に出た田村大佐にろくろく挨拶もせず、いきなり「ピブン首相は泰仏印国境において、泰国外務省官吏に対し日本軍が加えた重大な暴行侮辱事件に憤怒し、昨夜来失踪してしまった。誰にも行方を告げずに。これは首相の貴官あて置き手紙である」とて一通の封書を手交してそうこうと風のごとく立去ってしまった。武官室の一同はこの報を聞いてしばらく茫然自失の態となった。・・・・
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ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
12月4日の午後、武官室電報班の江里という青年(大川周明博士の塾出身)が一片の電文をわしづかみに息せき切って補佐官室に飛び込んできた。大本営からの飛電である。帝国政府はこの日の午前会議において、万死一生の決意すなわち英、米両国に対する開戦を決定したのである。ついに運命の大戦争は決意された。X日は12月8日の予定と。
海南島に待機していたマレイ攻略軍の大船団は、この日、泊地を出航して直路南泰沖に向かうのである。
泰、仏印国境には、近衛師団がスタートラインに勢ぞろいした競馬のように詰めかけている。・・・・
マレイ攻略軍の船団は三日四晩も英軍の眼の光っている仏印沖を抜けて南支那海を泰湾に進航するのである。天祐か、奇蹟でもなければ、英軍の発見を免れることはできないであろう。バンコックの無線諜報は、マレイ沖からボルネオ沖にかけて英軍機の頻繁な哨戒行動を立証している。日本軍はこの奇蹟の成否に、緒戦の運命を賭けているのである。もし洋上に発見されたら、マレイ英空軍とシンガポールに不沈を誇る英極東艦隊必殺の攻撃を受けること必至である。もしそんなことが起きたらその結果は,想うだに慄然たるものがある。山下兵団の壊滅もあり得る。首そ両端を持する泰国の動向等は、この一事件だけでたちまち日本の敵になることは火を見るよりも明らかである。・・・・
12月お6日、いよいよ日本軍の船団がサイゴン沖に差しかかる日である。英軍哨戒の危険区域に入るのだ。この日、サイゴンの軍司令部から連絡の将校がきて、七日午後を期して、泰国政府に日本軍進駐を要求する最後通牒を提出することを武官と打ち合わせた。そして、泰国がこの日本の要求を容認するか否か・・・いわば泰国が日本の味方であるか、敵国であるかを確認するために、12月8日の払暁、武官室の上空に飛ばせるわが飛行機に対して煙と布板の信号をするように打ち合わせて帰って行った。この夜もオリエンタルホテルで外人達の和やかな会食や舞踏が常日のように行われていた。明くれば12月7日である。・・・
この朝、思わざる奇怪な変事が捲き起った。午前九時頃であったろうか、田村大佐と格別に親密な間柄といわれている泰国政府の閣僚ワニット氏が、突然血相を変えて武官室の宿舎に飛び込んできたのである。そして非常な興奮の面持で応対に出た田村大佐にろくろく挨拶もせず、いきなり「ピブン首相は泰仏印国境において、泰国外務省官吏に対し日本軍が加えた重大な暴行侮辱事件に憤怒し、昨夜来失踪してしまった。誰にも行方を告げずに。これは首相の貴官あて置き手紙である」とて一通の封書を手交してそうこうと風のごとく立去ってしまった。武官室の一同はこの報を聞いてしばらく茫然自失の態となった。・・・・
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2008年06月09日
F機関と開戦準備
絶望的となった日米交渉
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
11月28日朝、いつものように大使館に出かけて坪上大使と暫時面談してから、武官室に立ち廻った。補佐官室に入ると、徳永補佐官がつと立ち上がって私に目くばせしながら階下の応接室に誘った。・・・補佐官が声を潜めて私に漏らした内容は、私の予想とは別個の重大な内容であった。それは「日米交渉がいよいよ絶望状態に立ち至ったことと、開戦は12月上旬たるべきこと、田村武官の任務であり、私が補佐に任じているマレイ方面の工作は開戦と共にすべて南方軍総司令官寺内大将に引継がれ、更に同大将から第二十五軍司令官山下対象の区処下に工作を実施すること。私及び私のメンバーは南方軍総司令部に転属され、更に第二十五軍司令官のもとに派遣されてこれを担任することなどの予想であった。かねて予期していたところではあったが、現実にこのように最後の「断」のときが迫りつつあることを聞くと、名伏し難い興奮が全身を突っ走った。
私は、即座に二つのことが思い浮んだ。その一つは、プ氏と早々活動の具体的方策を協議しなければならぬことであった。その二つは、開戦と同時にプ氏らIILメンバーと私達F機関のメンバーが如何にして南泰の戦機に間にあうように馳せ参ずるかということであった。私は、その場で徳永補佐官にダグラス一機の準備を要請して快諾を受けた。私はその夜、プ氏との会談を応急手配した。山口君が奔走して、三菱支店長の宿舎を借用するように交渉を遂げてくれた。新田支店長は心よく承諾してくれた。大田黒君がプ氏に本夜の会談を申し入れた。私の気のせいか、武官や補佐官の緊張が、自から武官室全体に反映して、この緊迫した空気と街を行く泰人や支那人の平和な気配とはそぐわない懸隔が感ぜられた。私達は今マレイ方面に対する活動を策しつつあるのだが、脚もとの泰の動向がどちらへ転ぶかわからないのだ。大使や武官の活動により、開戦にあたって泰国に日本軍の平和進駐を認めさせ得る見込みが次第に多くなったと見られていたが、複雑な泰国の政情にかんがみると、必ずしも信をおけるものではない。もし泰の動向が逆転でもしたら、日本人はことごとく拘留されるだろう。そうなると、私を始め私のメンバーは、ことごとくバンコックや南泰の監獄に押し込められて活動ができなくなる。私はそのことを予想すると気が気でなかった。
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ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
11月28日朝、いつものように大使館に出かけて坪上大使と暫時面談してから、武官室に立ち廻った。補佐官室に入ると、徳永補佐官がつと立ち上がって私に目くばせしながら階下の応接室に誘った。・・・補佐官が声を潜めて私に漏らした内容は、私の予想とは別個の重大な内容であった。それは「日米交渉がいよいよ絶望状態に立ち至ったことと、開戦は12月上旬たるべきこと、田村武官の任務であり、私が補佐に任じているマレイ方面の工作は開戦と共にすべて南方軍総司令官寺内大将に引継がれ、更に同大将から第二十五軍司令官山下対象の区処下に工作を実施すること。私及び私のメンバーは南方軍総司令部に転属され、更に第二十五軍司令官のもとに派遣されてこれを担任することなどの予想であった。かねて予期していたところではあったが、現実にこのように最後の「断」のときが迫りつつあることを聞くと、名伏し難い興奮が全身を突っ走った。
私は、即座に二つのことが思い浮んだ。その一つは、プ氏と早々活動の具体的方策を協議しなければならぬことであった。その二つは、開戦と同時にプ氏らIILメンバーと私達F機関のメンバーが如何にして南泰の戦機に間にあうように馳せ参ずるかということであった。私は、その場で徳永補佐官にダグラス一機の準備を要請して快諾を受けた。私はその夜、プ氏との会談を応急手配した。山口君が奔走して、三菱支店長の宿舎を借用するように交渉を遂げてくれた。新田支店長は心よく承諾してくれた。大田黒君がプ氏に本夜の会談を申し入れた。私の気のせいか、武官や補佐官の緊張が、自から武官室全体に反映して、この緊迫した空気と街を行く泰人や支那人の平和な気配とはそぐわない懸隔が感ぜられた。私達は今マレイ方面に対する活動を策しつつあるのだが、脚もとの泰の動向がどちらへ転ぶかわからないのだ。大使や武官の活動により、開戦にあたって泰国に日本軍の平和進駐を認めさせ得る見込みが次第に多くなったと見られていたが、複雑な泰国の政情にかんがみると、必ずしも信をおけるものではない。もし泰の動向が逆転でもしたら、日本人はことごとく拘留されるだろう。そうなると、私を始め私のメンバーは、ことごとくバンコックや南泰の監獄に押し込められて活動ができなくなる。私はそのことを予想すると気が気でなかった。
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2008年06月06日
F機関の理念と任務
日本民族の責務
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
われわれは毎夜のように深更までわれわれがいだくべき理念と任務達成の方策について語りあった。おたがいにこの時期が一番楽しかった。大東亜が戦場となった場合、日本の理想は、「アジアは一つなり」と叫んだ岡倉天心の遺訓に学び、相克対立を越えた共栄和楽の理想境をアジアに建設することにあらねばならない。そこに征服者の支配意識や勝者の驕りがあってはならない。
大東亜各民族は、他民族のあらゆる支配と圧制から解放され、自由と平等の関係において、それぞれ各民族の政治的念願を成就し、文化の伝統を高揚して、東亜全体の福祉と向上とに寄与する一体観の平和境を造らねばならない。日本民族はその先達となる責務を負い、かつそれを実践しなければならない。各民族の信仰や風俗や習慣や生活はあくまで尊重しなければならない。われわれの主観的なものを強要するようなことは厳に慎まなければならない。われわれの運動はこの理想を指標として、私達の誠意と情熱と愛情とを、実践を通じて異民族に感得させ、その共鳴と共感を受けなければならない。
英国やオランダの統治は一世紀内外にもわたっているし、巧妙な方策と豊富な物資を駆使して現地人を懐柔し縛っている。これに対して無経験なわれわれが、貧弱な陣容と不十分な準備とをもって、その鉄壁を破る方法はただ一つである。彼らの民族的念願を心から尊重し慕愛と誠心をもって臨み、その心を掴むよりほかはないのだ。至誠は天にも通ずるのだ。
われわれの運動は、あくまでも日本のこの理念に共鳴する異民族同志の自主的運動を支援すね形において行わねばならない。少しでもわれわれの強制や干渉が加わったり、あるいは利用の観念や傀儡の印象を与えるようなことがあってはならない。術策を排し、誠実をもって任務に当たらねばならぬ。このわれわれの任務を達成するために最も重要なことは、マレイやスマトラや印度の各民族の同志が、それぞれ己の民族に対していだいている愛情と情熱と独立に対する犠牲的決意に劣らないものを、われわれがその民族に対して持たなければならない。・・・・
作戦軍にこの趣旨の徹底を厳粛に要求しなければならない。われわれはこのような問題に関して、異民族と日本作戦軍との間に立って苦しい立場に立つことが多いことを予想されるが、勇気と信念をもってこの斡旋を完うしなければならない。更にいま一つ大切なことは、われわれのメンバーの融和と団結である。そして異民族の指導者や現地民が、自ら私達のメンバーの麗しい和合に感化されるように心がけねばならない。私は夜の会話にこのようなことを数々の例証を挙げて強調した。皆傾聴共鳴してくれた。
続きを読む
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
われわれは毎夜のように深更までわれわれがいだくべき理念と任務達成の方策について語りあった。おたがいにこの時期が一番楽しかった。大東亜が戦場となった場合、日本の理想は、「アジアは一つなり」と叫んだ岡倉天心の遺訓に学び、相克対立を越えた共栄和楽の理想境をアジアに建設することにあらねばならない。そこに征服者の支配意識や勝者の驕りがあってはならない。
大東亜各民族は、他民族のあらゆる支配と圧制から解放され、自由と平等の関係において、それぞれ各民族の政治的念願を成就し、文化の伝統を高揚して、東亜全体の福祉と向上とに寄与する一体観の平和境を造らねばならない。日本民族はその先達となる責務を負い、かつそれを実践しなければならない。各民族の信仰や風俗や習慣や生活はあくまで尊重しなければならない。われわれの主観的なものを強要するようなことは厳に慎まなければならない。われわれの運動はこの理想を指標として、私達の誠意と情熱と愛情とを、実践を通じて異民族に感得させ、その共鳴と共感を受けなければならない。
英国やオランダの統治は一世紀内外にもわたっているし、巧妙な方策と豊富な物資を駆使して現地人を懐柔し縛っている。これに対して無経験なわれわれが、貧弱な陣容と不十分な準備とをもって、その鉄壁を破る方法はただ一つである。彼らの民族的念願を心から尊重し慕愛と誠心をもって臨み、その心を掴むよりほかはないのだ。至誠は天にも通ずるのだ。
われわれの運動は、あくまでも日本のこの理念に共鳴する異民族同志の自主的運動を支援すね形において行わねばならない。少しでもわれわれの強制や干渉が加わったり、あるいは利用の観念や傀儡の印象を与えるようなことがあってはならない。術策を排し、誠実をもって任務に当たらねばならぬ。このわれわれの任務を達成するために最も重要なことは、マレイやスマトラや印度の各民族の同志が、それぞれ己の民族に対していだいている愛情と情熱と独立に対する犠牲的決意に劣らないものを、われわれがその民族に対して持たなければならない。・・・・
作戦軍にこの趣旨の徹底を厳粛に要求しなければならない。われわれはこのような問題に関して、異民族と日本作戦軍との間に立って苦しい立場に立つことが多いことを予想されるが、勇気と信念をもってこの斡旋を完うしなければならない。更にいま一つ大切なことは、われわれのメンバーの融和と団結である。そして異民族の指導者や現地民が、自ら私達のメンバーの麗しい和合に感化されるように心がけねばならない。私は夜の会話にこのようなことを数々の例証を挙げて強調した。皆傾聴共鳴してくれた。
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2008年06月05日
F機関・深夜の密会
藤原氏とプリタムシン氏の密会
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はイッポーF機関本部でINA(インド国民軍)将兵とくつろぐ筆者

引用開始
時計は、約束の午後九時に十分前のところを指していた。物静かな路地の奥に目的の家があった。その家の軒先に一人の白布をまとった男が突立っていた。ぎょっとした二人が、素知らぬ素振りで行き過ぎようとした瞬間、件の男は、Yamashita と呼びとめた。われわれは彼がプ氏の案内人であることを知って安堵した。私は山下浩一と変名していた。初会の場で、プリタムシン氏にこの変名を名乗って置いたのである。
われわれは黙々として彼の後に従った。細い路地を入って漬物部屋のような異様な臭気のする納屋の二階に案内された。雑然とした物置の隅に、汚い小さな机と三脚の板張り椅子、縄張りの粗末な寝台が一つだけ備えてあった。そこには先日のプ氏が私を待っていた。待ち構えていたようにプ氏は例の合掌の挨拶ののち、私に握手の手を差し伸べた。プ氏は先ず「こんな汚いところに案内をして失礼を致します。しかし用心にはよい場所です。下に見張りを立ててありますから安心してお話し下さい。」と述べた。私は実のところ、あまりのむさ苦しさと異様な臭気とに閉口していたが、しいて「そんなご心配は無用です。こんな用心のよいところが見つかって何よりです」と答えて、彼の気苦労を解くことに努めた。・・・・・
私は先ずプ氏からバンコックの印度人の情勢について次のようなことを聞いた。
バンコックにはIILの他に,泰印文化親善を標榜する印度人団体がある。この団体は比較的穏健な国民会議派系の思想団体であり、その中心人物はスワミイ(バンコック大学の教授)、ダース両氏である。この団体はドイツ大使館とも関係をもっているし、当地印度人の実業家の支援もあってIILに比しはるかに有力である。この団体は、シーク族を主体とするIILと反目的関係にあることなどであった。
この団体の指導者ダース氏は、サハイ氏らと共に日本において反英運動に関係していた人で、私は今年の春頃東京でサハイ氏と共に面接したことがある人である。私はダース氏の指導する文化団体とIILとの反目的関係は非常にデリケートな問題だと直感した。またこの反目の結果、IILの活動が暴露しやしないかと心配した。プ氏に両団体との提携の可能性を質したが、相入れない関係にあることが観察された。私は旧知であるダース氏の文化団体とは別個に接触したい魅力を感じないでもなかったが、このことはプ氏を初めIILメンバーによい感じを与えないことや、日本側とIILとの関係が暴露する恐れを感じたので、両者の提携は、いよいよ開戦と決ってから斡旋することがよいと思った。
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ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はイッポーF機関本部でINA(インド国民軍)将兵とくつろぐ筆者

引用開始
時計は、約束の午後九時に十分前のところを指していた。物静かな路地の奥に目的の家があった。その家の軒先に一人の白布をまとった男が突立っていた。ぎょっとした二人が、素知らぬ素振りで行き過ぎようとした瞬間、件の男は、Yamashita と呼びとめた。われわれは彼がプ氏の案内人であることを知って安堵した。私は山下浩一と変名していた。初会の場で、プリタムシン氏にこの変名を名乗って置いたのである。
われわれは黙々として彼の後に従った。細い路地を入って漬物部屋のような異様な臭気のする納屋の二階に案内された。雑然とした物置の隅に、汚い小さな机と三脚の板張り椅子、縄張りの粗末な寝台が一つだけ備えてあった。そこには先日のプ氏が私を待っていた。待ち構えていたようにプ氏は例の合掌の挨拶ののち、私に握手の手を差し伸べた。プ氏は先ず「こんな汚いところに案内をして失礼を致します。しかし用心にはよい場所です。下に見張りを立ててありますから安心してお話し下さい。」と述べた。私は実のところ、あまりのむさ苦しさと異様な臭気とに閉口していたが、しいて「そんなご心配は無用です。こんな用心のよいところが見つかって何よりです」と答えて、彼の気苦労を解くことに努めた。・・・・・
私は先ずプ氏からバンコックの印度人の情勢について次のようなことを聞いた。
バンコックにはIILの他に,泰印文化親善を標榜する印度人団体がある。この団体は比較的穏健な国民会議派系の思想団体であり、その中心人物はスワミイ(バンコック大学の教授)、ダース両氏である。この団体はドイツ大使館とも関係をもっているし、当地印度人の実業家の支援もあってIILに比しはるかに有力である。この団体は、シーク族を主体とするIILと反目的関係にあることなどであった。
この団体の指導者ダース氏は、サハイ氏らと共に日本において反英運動に関係していた人で、私は今年の春頃東京でサハイ氏と共に面接したことがある人である。私はダース氏の指導する文化団体とIILとの反目的関係は非常にデリケートな問題だと直感した。またこの反目の結果、IILの活動が暴露しやしないかと心配した。プ氏に両団体との提携の可能性を質したが、相入れない関係にあることが観察された。私は旧知であるダース氏の文化団体とは別個に接触したい魅力を感じないでもなかったが、このことはプ氏を初めIILメンバーによい感じを与えないことや、日本側とIILとの関係が暴露する恐れを感じたので、両者の提携は、いよいよ開戦と決ってから斡旋することがよいと思った。
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2008年06月03日
F機関IILと初の密会
IILプリタムシン氏との密会
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はイッポーF機関本部の庭で語り合う筆者とアグナム大尉、中央は大田黒通訳

引用開始
10月10日ごろ、私が理想と運命を盟約すべきIIL書記長プリタムシン氏との初の密会が実現した。武官の宿舎で正午から会うことになった。約束の時間に彼はサムローに身を託して武官の宿舎に着いた。私は彼と面会する武官の居屋で武官と共に恋人でも待つような興奮を抑えながら氏の入室を待っていた。ボーイに案内されて氏は静かに階段を上がってきた。私と武官は室の入口まで彼を出迎えた。たくましい体躯と相貌の志士を想像していた私は、痩躯長身、稍々神経質で病弱そうに見える、物静かで柔和なシーク族の青年を目の前にして、一瞬失望に似たものを覚えた。氏は日本人が神仏に祈りを捧げるときと同様、両掌を胸の前に合わせて、敬虔な祈りの挨拶をした。握手を予想していた私は又面くらった。室内に導いてから武官はプ氏に私をねんごろに紹介してくれた。彼はにこやかにさも久しい知己を見るようなまなざしを私に注ぎながら、「私がプリタムシンです。貴方のことは田村大佐から承って鶴首して今日の日を待っておりました。よろしくお願い致します」といいながら、私の手をしびれる程固く握りしめた。私は誠実と情熱と信頼とをこめた彼の挨拶に感動し、固い握手を返しつつ答えた。「私は貴方の崇高なる理想の実現に協力するため、私のすべてを捧げて協力する用意をもって参りました。それは至誠と情熱と情義と印度の自由が必ず実現されねばならないという信念であります。おたがいに誠心と信頼と情義をもって協力致しましょう」といった意味を述べた。田村大佐の通訳で私の言葉を聞き取った彼は、私のこの挨拶に非常に満足してくれたように見受けられた。
次で相対坐した。私は真先に昨年の末に広東から送り届けた三人の同志の消息を尋ねた。彼はとみに感激の色を見せつつ「ああ、あの三人を送ってくださったのは貴方でしたか。同志は非常に日本参謀本部の友情を感激していました。厚くお礼申し上げます。彼らはそれぞれ計画どおりにマレイと印度とベルリンに潜行致しました。安心して下さい」と武官を顧みつつ感謝の意を表した。そして彼は「私と貴方が協力する立場になったのは、既にこのときから約束されていたのですね。われわれは既に古い同志なのでした」とうれしそうに語った。それから彼は初対面から打解けて、いろいろ彼らの政治運動に関する話を明らかにしてくれた。彼が1939年祖国における独立運動に伴う身辺の危険から脱して、シンガポールを経て、バンコックのアマールシン氏の許に身を寄せて、素志を継続しつつあることを語った。
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ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はイッポーF機関本部の庭で語り合う筆者とアグナム大尉、中央は大田黒通訳

引用開始
10月10日ごろ、私が理想と運命を盟約すべきIIL書記長プリタムシン氏との初の密会が実現した。武官の宿舎で正午から会うことになった。約束の時間に彼はサムローに身を託して武官の宿舎に着いた。私は彼と面会する武官の居屋で武官と共に恋人でも待つような興奮を抑えながら氏の入室を待っていた。ボーイに案内されて氏は静かに階段を上がってきた。私と武官は室の入口まで彼を出迎えた。たくましい体躯と相貌の志士を想像していた私は、痩躯長身、稍々神経質で病弱そうに見える、物静かで柔和なシーク族の青年を目の前にして、一瞬失望に似たものを覚えた。氏は日本人が神仏に祈りを捧げるときと同様、両掌を胸の前に合わせて、敬虔な祈りの挨拶をした。握手を予想していた私は又面くらった。室内に導いてから武官はプ氏に私をねんごろに紹介してくれた。彼はにこやかにさも久しい知己を見るようなまなざしを私に注ぎながら、「私がプリタムシンです。貴方のことは田村大佐から承って鶴首して今日の日を待っておりました。よろしくお願い致します」といいながら、私の手をしびれる程固く握りしめた。私は誠実と情熱と信頼とをこめた彼の挨拶に感動し、固い握手を返しつつ答えた。「私は貴方の崇高なる理想の実現に協力するため、私のすべてを捧げて協力する用意をもって参りました。それは至誠と情熱と情義と印度の自由が必ず実現されねばならないという信念であります。おたがいに誠心と信頼と情義をもって協力致しましょう」といった意味を述べた。田村大佐の通訳で私の言葉を聞き取った彼は、私のこの挨拶に非常に満足してくれたように見受けられた。
次で相対坐した。私は真先に昨年の末に広東から送り届けた三人の同志の消息を尋ねた。彼はとみに感激の色を見せつつ「ああ、あの三人を送ってくださったのは貴方でしたか。同志は非常に日本参謀本部の友情を感激していました。厚くお礼申し上げます。彼らはそれぞれ計画どおりにマレイと印度とベルリンに潜行致しました。安心して下さい」と武官を顧みつつ感謝の意を表した。そして彼は「私と貴方が協力する立場になったのは、既にこのときから約束されていたのですね。われわれは既に古い同志なのでした」とうれしそうに語った。それから彼は初対面から打解けて、いろいろ彼らの政治運動に関する話を明らかにしてくれた。彼が1939年祖国における独立運動に伴う身辺の危険から脱して、シンガポールを経て、バンコックのアマールシン氏の許に身を寄せて、素志を継続しつつあることを語った。
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2008年06月02日
バンコック潜行
身分を秘してバンコック入り
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はF機関メンバー

引用開始
その日から身分を秘してバンコックに入る研究と手続きが始まった。私と山口中尉は参謀本部からの交渉で、バンコック日本大使館の嘱託ということになった。米村少尉はタイランドホテル(日本人経営)のボーイということに。土持大尉は大南公司の社員に、中宮中尉は日高洋行の社員に、滝村軍曹は武官室書記に手配された。石川君はのちほど追及することになり、私と山口中尉がまず29日の飛行機で先発することになった。
9月20日、私は門松中佐の紹介で増渕佐平という一紳士に引き合わされた。もう60歳にも近く、見るからに温厚でいかにも円熟した紳士で、私には慈父を見る思いがした。・・・・
私は当時33歳であった。その他の将校はいずれも25歳に満たない若い人達であった。・・・・
大使館差廻しの自動車で、私はタイランドホテルに落ち着いた。日本人経営のホテルで、止宿人も日本人ばかりであった。言葉のできない私はほっとした。しかし反面、顔見知りの日本人にでも出くわしたら、身分がばれてしまうことを恐れて気が気でなかった。食道にも娯楽室にも出ずに、自室に引きこもることにした。翌早朝、自動車を呼んで私は武官の宿舎に急いだ。・・・・
食後武官の居室に案内された。大佐は私の差出した参謀長の訓令を熟読したのち、おもむろに口を開いた。
「君は私のもとでIILとの連絡、田代氏の担任している華僑工作と神本氏の担任しているハリマオ工作の指導を補佐してもらう。しかし諜報に関することは補佐官(飯野中佐――陸大同期生)が直接担任する.差当りはバンコックの雰囲気になれるように当地の情勢を観察することだ。近日IILのプリタムシン氏に引き合わせよう。また南泰にいる田代、神本両氏を招致して合わせるように手配しよう。
想察に難くないことと思うがバンコックは英・米・支・独の諜報戦の焦点でもあるし、日本側からも色々の軍官民が入り込んで、政治工作に、情報に、資源獲得に必死の活動を展開している。
泰国政府は列国の策動対してきわめて神経過敏になっている。その政府要人の中にも親英派があって、その動向は微妙そのものである。日本側の策動に対しても、厳しい偵諜の眼を光らせている。もし君の仕事がばれたら、この仕事自体が駄目になるばかりではない。日本の作戦準備が暴露するし、泰国の親日動向を逆転させてしまうなど、由々しい結果を招く恐れがある。防諜に特に注意しなければならない。
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ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はF機関メンバー

引用開始
その日から身分を秘してバンコックに入る研究と手続きが始まった。私と山口中尉は参謀本部からの交渉で、バンコック日本大使館の嘱託ということになった。米村少尉はタイランドホテル(日本人経営)のボーイということに。土持大尉は大南公司の社員に、中宮中尉は日高洋行の社員に、滝村軍曹は武官室書記に手配された。石川君はのちほど追及することになり、私と山口中尉がまず29日の飛行機で先発することになった。
9月20日、私は門松中佐の紹介で増渕佐平という一紳士に引き合わされた。もう60歳にも近く、見るからに温厚でいかにも円熟した紳士で、私には慈父を見る思いがした。・・・・
私は当時33歳であった。その他の将校はいずれも25歳に満たない若い人達であった。・・・・
大使館差廻しの自動車で、私はタイランドホテルに落ち着いた。日本人経営のホテルで、止宿人も日本人ばかりであった。言葉のできない私はほっとした。しかし反面、顔見知りの日本人にでも出くわしたら、身分がばれてしまうことを恐れて気が気でなかった。食道にも娯楽室にも出ずに、自室に引きこもることにした。翌早朝、自動車を呼んで私は武官の宿舎に急いだ。・・・・
食後武官の居室に案内された。大佐は私の差出した参謀長の訓令を熟読したのち、おもむろに口を開いた。
「君は私のもとでIILとの連絡、田代氏の担任している華僑工作と神本氏の担任しているハリマオ工作の指導を補佐してもらう。しかし諜報に関することは補佐官(飯野中佐――陸大同期生)が直接担任する.差当りはバンコックの雰囲気になれるように当地の情勢を観察することだ。近日IILのプリタムシン氏に引き合わせよう。また南泰にいる田代、神本両氏を招致して合わせるように手配しよう。
想察に難くないことと思うがバンコックは英・米・支・独の諜報戦の焦点でもあるし、日本側からも色々の軍官民が入り込んで、政治工作に、情報に、資源獲得に必死の活動を展開している。
泰国政府は列国の策動対してきわめて神経過敏になっている。その政府要人の中にも親英派があって、その動向は微妙そのものである。日本側の策動に対しても、厳しい偵諜の眼を光らせている。もし君の仕事がばれたら、この仕事自体が駄目になるばかりではない。日本の作戦準備が暴露するし、泰国の親日動向を逆転させてしまうなど、由々しい結果を招く恐れがある。防諜に特に注意しなければならない。
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