ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はビルマ軍司令部前で馬上の筆者

引用開始
バンコック日本武官室の二階の一室で田村大佐と門松中佐が対座して密談が続いていた。・・・・初めて体験するこのバンコックの熱気も忘れ、田村大佐の報告に全神経を集中し、その要旨をメモしながら時々反問する中佐の面には明らかに希望が輝き、武官に対する感謝の念が動いていた。一体中佐は田村武官からいかなる方策を拾いつつあるのであろうか。中佐は三つの新しい工作の端緒を発見し得たのである。・・・・
その一つは、先に紹介したIILであった。その二つは「マレイのハリマオ」と称するものであった。それはマレイの東岸トレンガンに居住していた谷豊なるものの異名である。ハリマオというのはマレイ語「虎」という意味であった。彼の一家は明治の末からトレンガンに居住し、理髪業で糊口をしのいでいたが、日支事変の当初、この地に華僑の排日運動が激しかったころ、その襲撃を受けて妹静子(六歳)が拉致されて無惨に殺された。彼はそのころから素行が急変し、マレイ人の無頼の徒に加わって匪賊行動にはしるようになった。彼は大胆、変幻自在の巧妙な行動と、マレイ人の子分に対する義侠的態度によって彼らの頭目となり、三千人に上る部下をもっている。目下英官憲に追われて南泰に潜伏しているが、ここでも地方泰人の信望を集めている。・・・
マレイに対する諜報に価値があるだけでなく、有事の日にはマレイ人に対する宣伝、英軍に対する謀略に大きな役割を果し得るだろうというのであった。その三つは先に門松中佐が東京から南泰に派遣していた田代重遠氏(佐賀県出身、実名は岩田氏、中学卒業と共に図南の志に燃えて、南方に進出し、シンガポールに長年居住し華僑事情に明るく、また知己が多いという話であった)を通じ、シンガポールの華僑特に埠頭苦力を反英運動に決起し得る見込みがあるということであった。スマトラ・ジャワに対する有効な手がかりは全くなかった。中佐は田村大佐に、この工作のため速急に適当な将校と必要な経費を手配する約束をして東京に帰ってきた。・・・・
九月十日(1941年)の午後、門松中佐は私を自分の席に呼び寄せていつになく改まった重い口調で、思いもよらない事を宣告した。いわく「貴官には近日バンコックに行ってもらわねばならぬ。その仕事は田村大佐を補佐してマレイ方面に対する工作の準備に当ってもらうことになる。もしこの情勢が悪化して日英戦争が始まるようなことになれば、貴官は近く編成される南方総軍参謀に補佐せられたうえ、もっぱらマレイ方面の工作を担任することとなる予定である。数名の将校をつける予定だ」と。そして彼がバンコックで田村大佐から得た情報の内容をかいつまんで説明してくれた。
続きを読む