2008年05月29日

印度秘密結社IIL

インド人三志士の密航と秘密結社IILの登場

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真は著者近影(左)とF機関当時の著者(右)
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引用開始
 1940年12月、筑波おろしの烈しいある日の朝、東京三宅坂にある日本大本営陸軍部第八課の門松中佐の机上に異様な一通の親展電報が配布されていた。発信者は広東にある日本軍(第二十一軍・・・波集団)参謀長であった。あて名は参謀次長であった。その内容は香港から脱出してきた三名の印度人が、広東の日本軍司令部にたどり着いて、次のような申出をしたというのである。それは「自分達は反英策動のかどで香港の刑務所に抑留されていたが脱走してきた者である。その目的は三名がそれぞれ印度本国、ベルリンおよびマレイに潜行し、同志と連絡して反英独立運動を遂行したい。それがために、日本軍保護のもとに、なし得ればバンコックに、やむを得なければ仏印に送ってもらいたい。自分達はその後は陸路歩行をもって目的地に行く」というのである。

 なお、この電報の末尾には印度人の氏名が記載されてはいなかったが、「シーク族」で、熱烈な反英独立運動の志士であること確実なる旨が付記されてあった。・・・・
 返電の内容は「広東の日本軍において素性を更に確かめたうえ、できるだけの好意をもってその希望をいれてやるよう」に指令されてあった。この電報と入れかわりに、更に広東の日本軍から「件の印度人三名を、神戸に向かう汽船に便乗し出発させたから、参謀本部の方でしかるべく処置されたき」旨の電報が入った。
 そこで門松中佐はこの三名を安全に、バンコックに密航させる処置を、藤原少佐(当時大尉)―私に命じた。小岩井大尉がその補佐を命ぜられた。私はこの三名の印度人につき、日本大本営は何ら特別の要求、もしくは期待をしないということを確かめた上、バンコック行きの船便を探索した。また、バンコックの田村武官に、バンコック港到着時、無事に密かに上陸できるように手配方を打電依頼した。
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posted by 小楠 at 07:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物