ハル・ノートはコミンテルン製
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
ハルノートとして知られる「覚書」について書いておきましょう。ハリー・D・ホワイト財務副長官の書いた「一般案」(原則論だから強硬です)と、コーデル・ハル国務長官の記したもの(暫定案だから妥協的です・・・例えば南部仏印の兵力は二万五千人以内とかいうように日本の乙案に対応したものでした)と二つの「ハル・ノート」が存在していたことが、この書(ロバート・B・スティネット著『真珠湾の真実』)でも確認できました。他の書は多くがこの点で混乱しています。ハル長官の記したものは日本に通告されていません。通告されたのはホワイト作成のものです。
ハル作成のものは極めて融和的なものであり、提示された中国・イギリス・オランダは一様に反発しました。それを確認したルーズベルトは、強硬な内容で日本が到底のめない「ハル・ノート」を日本にだけ通告したのです。英蘭支が知らない「ハル・ノート」に日本は絶望しました。牛場秘書官がバレていると忠告した暗号で東京のアメリカ大使館に伝えられ、解読した日本政府は絶望したのです。11月26日にハル・ノートは野村大使に手交されましたが、東京の日本外務省は事前に解読して知っていたのです。日本は暗号を解読して親米英派は絶望し、沈黙しました。
だから機動部隊は一日前の25日に、ヒトカップ湾を出撃していたのです。ハリー・D・ホワイト財務副長官はコミンテルンの要員だったことが確定していますが、日本には哀し過ぎる事実です。コミンテルン製のハル・ノートで日本は開戦を決意したのです(戦後に彼は「自殺」します)。・・・・
ルーズベルトは何を考えていたのでしょうか。1941(昭和十六)年に入ると彼は外交的解決を考えなくなっていました。外交的解決ではなく経済制裁を強め「最悪の事態」「日本の明白な戦争行為」を促進させることに集中するようになっていました。特に、八月のチャーチルとの洋上会談で「バック・ドアー・ツー・ウォー」(裏口からの参戦)を密約して以来は、マッカラムの「八項目」のエスカレーションの実行に移っていたのです。七月になると日本船舶のパナマ運河通過を禁止し、八月には石油。金属等の全面禁輸に踏み切ります。
続きを読む