2008年05月08日

知ってはならない歴史9

朝鮮植民地化のウソ

若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。

引用開始
 前掲の教科書(『世界の歴史』山川出版社)を引こう。
「経済的にもまだ弱い日本が、二十世紀はじめ帝国主義諸国の仲間にはいれたのは、日本が天皇制のもとで強力な軍備を保持し、また当時列強の分割競争のおもな舞台であった中国にもっとも近く位置して、ここに大兵力をすばやく送れる有利な条件をもっていたことによる。たとえば義和団事件で列強が中国へ出兵したとき、ここに一カ月以内に一万の大軍(連合軍総数二万弱のうち)を送れたのは日本だけで、結局、日本は義和団鎮圧の主力になった。こうして日本は東アジアで帝国主義列強の利益を守る「憲兵」の役割をはたしながら軍事的・経済的大国に成長したのであった」
 ここにはウソが書かれている。義和団事件のときに、十余万の大軍を満州に駐屯させていたのは、ロシアである。ロシアは思惑から、満州の大軍を救援に用いなかっただけである。
 動かないロシア軍の思惑を警戒していた英仏などは、日本に球援軍の派遣を懇請したのであった。日本は四回の正式要請に接して、第五師団の派遣を行ったものである。連合軍二万弱は天津から北京に入城に成功した。確かに、日本軍が半数以上を占めていたが、ロシアは義和団事件を機に満州に大軍を送り続け、満洲全土をほぼ占領することに成功したのであった。・・・

 ロシアは北京の外交使節団全滅は秘かに期するところだったのである。なぜなら、義和団を清朝は利用するだけでなく、自らも国軍を動かし、排外の軍事行動に出ていたからである。ロシアは清国の国軍との交戦を欲しなかったし、密約もあった(露清密約)。
 ロシアの思惑はこの限りでは、成功した。満州の占領が成功したからである。
 義和団事変議定書は、清国は賠償金約五千万両(テール)を連合軍十一カ国に支払い、十二箇所に外国軍隊の駐屯を認めた。この議定書に基いて、日本は諸外国とともに支那駐屯軍を置くにいたったのである。議定書の成立は1901年9月である。日露戦争の三年前である。このときからの支那駐屯軍が、盧溝橋事件に遭遇するのだが、これが昭和十二年七月七日のことである(正確には七月八日が正しい)。
 満州が占領され、朝鮮にロシアの軍事基地が構築されるにいたり、日露戦争が勃発した。
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posted by 小楠 at 07:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚から真実を